2010.1.31[Sun]
「フランドルへの道」
「毛布を一枚かけてあるので出ているのは硬直した四肢、おそろしくながい首だけでその首の先にたれている、ごつごつ骨ばった頭、面が平べったく、毛がぬれ、まくれた唇から見える長い歯が黄色いいかにも大きすぎるその顔を、もう持ちあげる力もないのだった。まだ生きているように見えるのは、巨大な、悲しげな目だけで、その目玉のきらきら光るふくらんだ表面には、彼ら自身の姿、括弧のようにゆがみ、ドアの明るい色を背景に浮きだしている彼らのシルエットが見え、それがなにかかすかに青みがかった霧か、ヴェールのようで、すでにできはじめた角膜白斑みたいに、一眼巨人を思わせるそのやさしいまなざし、非難をこめ涙を浮かべたその目をくもらせていた。」……(以下略)
これはノーベル文学賞作家クロード・シモン (Claude Simon/1913年〜2005年)の代表作『フランドルへの道』(平岡篤頼訳/白水社)の中で、自分にとって特に印象的に残った、雨のなかで老いた馬が死にゆく何とも忘れがたい場面である。
クロード・シモンはナタリー・サロート、ミシェル・ビュトール、アラン・ロブ=グリエ、サミュエル・ベケットらと並ぶヌーヴォー・ロマン(第二次大戦後のフランスで発表された前衛的な小説作品群で「新小説」の意)の旗手の一人であり、自分が最も影響を受けた小説家の一人である。ただし、読む時はとにかく「早く読めない」ことに耐えながら、あるいは「二読三読」しながら読むしかない。読む苦労は普通の小説の比ではない。ちょっとでもぼんやりと読んでいると何についての話なのか分からなくなり、宙に放り投げられる。なぜならば、混沌とした現実や意識の複雑な動きが整理されずに、たえず脱線し、断片的に語られ、話が次々と横にズレていき、確固たる真相が決して提出されないからである。
『フランドルへの道』の話の粗筋は、第二次世界大戦のある夜、話者であるジョルジュが、戦死した騎兵中隊長で従兄のレシャック大尉の妻コリンヌと安ホテルで密会している。数時間の情事のさなか、それまでの大戦の経緯がジョルジュの脳裡をかすめていく…待ち伏せにあい敗走する中隊、浮気な妻に苦しめられていたらしい大尉の自殺とも思える戦死、捕虜収容所での日々、脱走…一人生き残ったジョルジュは欲望の対象としてさまざまな空想を巡らせたコリンヌに会いに来たのだ。そしてそのたった一夜の人間の脳裡に突然蘇った記憶の混沌が300ページにも渡って緊密に織りなされていく。
シモンの小説では登場人物の素性が曖昧でアウトラインもはっきりしない。展開の軸となる筋もはっきりしないことが多い。ところが、数十ページ読み進めるうちに、ある時点から不意にくっきりとした鮮明な情景が目の前に浮かび上がり、血と汗と土の匂いを伴ったアドレナリンが体の中で火をチロチロ燃やして暖め始める。文学における専門的解釈はどうなのか定かでないが、記憶の中に残った特別印象的なイメージが徐々に鮮明なアウトラインをとっていく様など…自分はシモンの小説にはなぜか非常に絵画的な印象を感じてしまうのである。
「……イメージが唯一の本質的な要素であるから、現実の人物たちをきっぱりさっぱり消去する単純化こそが決定的な完成なのです」とマルセル・プルーストの言葉がシモンの『路面電車』の最初の章の銘として掲げられている。人間の意識の底には一体どんな予想もつかない無秩序が隠されているのであろうか。

2010.1.27[Wed]
「展覧会のお知らせ」
ご案内が遅れましたが今週、銀座のギャルリー志門様(東京都中央区銀座6−13−7 新保ビル3F)で開催されております『Print-making』に1点作品を展示させて頂いております。お時間がありましたらご高覧頂ければ幸いです。


2010.1.18[Mon]
「怖い絵」
今思い出せる幼い頃の記憶でおそらく一番古いものは、2〜3歳ぐらいのものであろうと思う。それは夏のある日のこと。寝かしつけられた記憶は何も覚えていないのだが、実家の一番奥の部屋で一人で昼寝をしていた時のことのようである。目を覚ますとまず目に飛び込んで来たのが外の光を吸収し眩しくきらめく四角い窓ガラスのシルエット。しばらくして目が慣れてくると対照的に暗い部屋の様子が網膜の裏側に揺らめいて見えてくる。周りを見渡すと側には誰もいなくて一人ぼっちであり、急に心細くなった自分はベビー蚊帳から這い出て親の元へ行こうと歩き出した。そしてニ、三歩歩いたところで記憶はプツリと途切れてしまう…。現実にあった事なのか、はたまた夢の中での記憶なのか…非常におぼろげで断片的ながらモノクロフィルムが回り出すように今でも時折思い返す光景だ…なぜそんなどうでもいいような数秒または数十秒の光景が記憶の中に深く焼き付いているのか…。
昼寝をしていたその部屋は実家の一番北側に位置していて、昼間でも光があまり入らないため薄暗くひんやりしている。自分が生まれるだいぶ前は特定郵便局だったらしく、おそらくそこが窓口か何かをやっている部屋だったのだろう。だが、生まれる前には改築されてしまっていたのか、その面影はどこにも残ってはいなかった。自分の記憶にあるのは普段あまり使われていない納戸であったということだけだ。実のところ子どもの頃はその部屋が少し怖く近づきがたいところであった。薄暗くひんやりした部屋だったということも影響していたのだと思うが、一番の理由は作り付けの本棚に無造作に画鋲で留められた一枚の絵はがきだった。少し古びたその絵はがきはサイズが普通のものより少し大きいように感じられ、赤い服を着た女性の絵が印刷されていた。絵の中の女性は、顔より長いかもしれない首が湾曲し、傾けた卵形の頭を支え、こちらを悲しげにうつろな目で静かに見つめていた。思い返せばモディリアーニの絵である。「悪い事をするとあんなふうに首が長くなっちゃうんだよ」と母親が冗談まじりに言ったのを本気で信じ、怖くなったのを今でも良く覚えている。それでも子ども心に時々怖いもの見たさでその部屋に行ってはその絵を見た。ただし、あまり目を合わせぬようにと心のどこかで気にしながら…。そして薄暗い部屋でぼんやりと浮かんで見えるその細くて長い首に心の底から同情し、この女性はどんな悪いことをしたのだろうかと想いをめぐらせた。当たり前でとても馬鹿らしい話だが、その答えは未だ見つからぬままだ。そして同時に自分も同じよう首が長くなってしまったら…という不安がいつも頭をかすめ、怖さに耐えられなくなり逃げ出すようにしてその部屋を出た。その際、あの女性が絵から抜け出して来てしまうような気がして、急いで障子を閉めるのを忘れなかった。今、あの絵はがきはどこへ行ってしまったのだろうか…。そして、子どもの頃に感じたあの「怖さ」とは一体何であったのだろう。

2010.1.10[Sun]
「巴里/1995年」
15年前の話になる。1995年2月21日、スペインのバルセロナを夕方に出発したスチームのいささか効き過ぎた寝台夜行列車は翌2月22日早朝フランスのパリに無事到着した。実はスペイン滞在中からなぜか体調が思わしくなかった。到着するや否や駅で倒れ込んで動けなくなってしまった。その瞬間、スペインのフィゲラスで食べた内臓煮込み料理が脳裏をかすめた。何はともあれ少し休まねば…。何とか格安ホテルを見つけチェックイン。体調が落ち着くのを待ち、午後街へ出た。
パリに来た一番の目的はルーブル美術館でもオルセー美術館でもなく、ギュスターヴ・モロー美術館だった。相変わらず身体はフラフラと地面から浮遊している感じはあったが何とか大丈夫そうだ。むせかえるような小便臭いメトロに乗り、パリ9区、トリニテデステンヌドルブ駅で降りて少し歩くとそれはあった。モローの邸宅を改造したひっそりとした佇まいの美術館である。入館料を支払った際、釣り銭をよこさぬ係員といささかの小競り合いをし、最終的に半ば投げやりに渡された釣り銭を手に、気を取り直すよう自分をなだめて館内に入る。1階にモローとその両親が暮らしたアパルトマンがあり、2階と3階が展示室。螺旋階段と天井の高いアトリエが心地いい。窓から差し込む午後の橙色の光が眩しく、その光の中でキラキラと埃が舞い踊るのが見える。入場者がごく僅かで静かな雰囲気の中、壁一面に所狭しと並んだ油彩画をしばし眺めた。
モローは同時期の印象派の画家たちが、ありのままの現実を再現しようとしていた頃、ギリシャ・ローマ神話や聖書を主題にして、幻想的な空想の世界を創り出した画家である。金色のくすんだ額縁の中には永遠に凝固してしまった繊細で華麗で神秘的で霊感漂う世界が広がっていた。そして、その中でも自分が特に惹かれるのは自動書記法的態度によって制作された、夢と内的真実が不定形な亡霊のように浮かび上がるシュールレアリズムやアンフォルメルを思わせる晩年の頃の作品である。「絶対零度」と言う表現が適当なのか分からないが、完成とも未完ともつかぬそれらの作品は、観ていると「キーン」という耳鳴りが聞こえてきそうな静寂を感じるのだ。その際、何故かアルノルト・シェーンベルクの禁欲的な厳粛性を持ち合わせた音楽と、幼い頃に見た犬の屍の肉塊の起伏と沈下の記憶が蘇り、相まみれ、時間が止まる。
しばらくして、窓際にあるデッサンコーナーへと足を向けた。そこは背もたれのない丸椅子が置いてあり、額縁が蝶番で幾重にも留められており、自由に開きめくってみる事のできる長居するにはもってこいの場所である。何気なく見始めたのだが、その内容はあまりにも圧巻であり息をのむものだった。4000点以上あるというそれらのデッサンに自分は鳥肌が立つのをおさえられなかった。線の息づかいがそのまま身体の中に浸透してくる。それら全てを見ることは時間的に不可能だと確信し、丁寧にじっくり見入ることにした。そして、それらの中で気に入ったいくつかをリバーサルフィルムにおさめ、そして持っていたスケッチブックを鞄から取り出して模写をした。自分のすぐ近くでパリの女子画学生らしきニ人が同じように模写をしており、どこの馬の骨かわからない一人の東洋人が模写している様子を珍しそうにチラチラ気にしていたのを感じたが、自信がなかったから彼女達には見えないように隠しながらこっそり描いた。そして予想通り、その模写は酷い出来映えであった。それでも心地よい満足感が残った。
その日の夕食はホテルの近くにある屋台で22フランのドネルカバブを買ってホテルに戻って済ませた。貧乏旅行にはレストランに入る余裕などない…。それでも実に心地よい夕食だった。体調も少しずつ良くなりつつあった。その後、パリ滞在中にモロー美術館は2度訪れた。その時は初めて訪れた時とは打って変わって係員は何事もなかったかのようにきちんと釣り銭を支払ってくれた。




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