2010.2.23[Tue]
「カーボン・ドローイング」
実家の納屋のコンクリ壁には兄によるものなのか、自分によるものなのか、弟によるものなのか、今となっては分からないが、白いチョークで描かれたいたずら描きが今も消えずに残っている。おそらく描かれているものは人や車など…何かのイメージなのだろうが、自由な息づかいが感じられ、帰省した際には時々気になって眺めることがある。ナメクジが這いずり回ったようなフニャフニャな代物だが、今となってはあのような意識を超えた線を引くのは簡単なようで結構難しい。つい変に意識が先走り線がついていかなくなるのだ。過去、納得いかずどれだけのドローイングを破り捨ててしまったか覚えていないが、それを見事解消してくれたのが10年程前から使用するようになったカーボン紙を使ったドローイングであった。
まず転写したい紙の上にカーボン紙を乗せ、さらに上から別の紙を重ねる。その上からボールペンでなるべく均一な圧力で、リズムを持って描いていくのだが、その際カーボン紙や上に乗せた紙は自分の意識とは関係なく滑ってズレていく。描く対象は目の前にある事もあれば、意識下に眠る物を描くこともある。またはそれらを混合して描くこともある。それらがどのような線として転写されているのかは最後にカーボン紙を取り除いてみなければ分からない。まるで版画プレス機を通して刷り上がったプリントをめくって見た際一喜一憂するように、カーボン紙を外す際のドキドキ感は毎回たまらないものがある。また、ズレて絡み合ったそれらの線は自分の意識では絶対に描けない自動書記を思わせる自由奔放さが加わり、線の必然性を回復することができたような結構意外な発見がある。
自分にとって表現の出発点は「場の空気感や記憶を探る」ということに行き着くので、ドローイングにはなるべくそのような線が定着しているのが望ましい。上手く描けたか否というのは特別問題にならない。つまり表面的に対象と一致する必要はない訳で、要は自分の中でのバランスが取れれば良いのである。
ちなみに自分は真っ白な紙がどうしても苦手であり、殆どの場合コーヒーなどで染色してしまうことが多い。染まって古紙のようになった紙とカーボンの黒は最高に相性がいい。




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