2010.11.25[Thu] |
「かささぎー恐怖と孤独のなかに置かれた存在の姿」 |
黒くまた銀色に煌めくメタリックとも思える起伏の連続に向って勢い良く投げつけられた平たい石は、空気の密度を切り裂きくるくると回転しながら着水し、水しぶきと波紋を作り出してその起伏の安定を壊し、その後も何度も何度も飛び跳ねながら除々にその距離と速度を落とし、ある瞬間に気を失ったかのように埋もれ消えゆく。底に沈みゆく石の軌跡と時間を、起伏が安定してゆく様と同時に感じながら、後頭部に残る意識とか感覚の係わる部分で再度模擬的に現出しようとしても二度と同じ結果は成し得ない…普遍の中の至福の〈行ったり来たり〉…「水切り遊び」 一昨日、とある国と国では「石」ではなく「砲弾」を交わす事件が世界に「波紋」を投げかけた。威圧する政治権力が人々を一致させるどころか分裂させていく結果となった「バベルの塔」=「混乱」にならないことを…そして一日も早い平和が訪れることを願うばかりである。 ところで「バベルの塔」と言えば、ピーテル・ブリューゲル。そして、ブリューゲルの作品の中で思い浮かぶのが、一見のどかな光に包まれた風景画「絞首台の上のかささぎ」である。画面中央に不思議にねじ曲がった絞首台が立ち、その上に一羽の「かささぎ」が何気なく止まっている。周辺の十字架や牛の頭蓋骨などのモティーフとは無関係に、その脇で楽しげに踊る村人の姿。矛盾した美しい景色。ちなみに絞首台の上の「かささぎ」は密告者(当時のネーデルランドは魔女裁判や異端審問が厳しく、密告義務を果たさない者は間接的異端とまで脅されていた時代)を意味しているらしい…恐怖と孤独のなかに置かれた存在。 そして、人間の狂気と愚かさを、こんなにも愛おしく描いたブリューゲルとは一体何者なのだろうと思ってしまう。 そして「魔女裁判」や「絞首台の上のかささぎ」から、またしてもアルテュール・オネゲルの劇的オラトリオ「火刑台上のジャンヌ・ダルク」を思い浮かべてしまう。ちなみに大天使ミカエルと共にジャンヌ・ダルクに啓示を与えた聖女カトリーヌは今日11月25日が聖人祝日である。 何故かふと、リルケの詩が身体の中に流れ込んでくる。 「豹」〜リルケ 通り過ぎる格子のために、 疲れた豹の眼には もう何も見えない 彼には無数の格子があるようで その背後に世界はないかと思われる このうえなく小さい輪をえがいてまわる 豹のしなやかな 剛い足なみの 忍びゆく歩みは そこに痺れて大きな意志が立っている 一つの中心を取り巻く力の舞踏のようだ ただ 時おり瞳の帳が音もなく あがるとーそのとき影像は入って 四肢のはりつめた静けさを通り 心の中で消えてゆく |
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2010.11.7[Sun] |
「無何有郷」 |
昼夜逆転の生活が続いている。頭蓋骨を使ったオブジェ制作が冷えた星空の元、のそり…と音を立てて進み、朝日と共に寝静まる。今日はここ数ヶ月気になっているルコント・ド・リールの詩を一遍ご紹介したいと思う。アルベルチーヌの謎は何故かここにも飛び火している。人工的で、規則正しく、滞ることがなく、徹頭徹尾『合理的』な「無何有郷」…。 「赤き星」〜ルコント・ド・リール 天空の深淵には、サヒールなる大きく赤き星あらむ。アベン=エズラ師 死んだ「諸大陸」にかぶさる昏睡状態の大波、 そこに一世界の臨終の戦慄が走ったその大波が、 沈黙と無辺の広がりのうちに、膨れ上がる。 そして赤いサヒールは、悲劇の夜々の奥底から、 ひとり燃え上がり、血に染まる眼差しをその波に投げる。 むきだしの孤独の、はてしない空間を通して、 この、無気力で、鈍重で、空虚で、虚無さながらの深淵、 サヒール、無上の証人、海をいっそうどんよりさせ 天をいっそう暗くする陰性の太陽が、 万物の睡りを、血みどろな眼で、いとしげに眺めている。 天才、愛情、苦痛、絶望、憎悪、羨望も、 人が夢みるもの、人が崇めるもの、人をだますものも、 「天」も「地」も、往古の「瞬間」に属するものは、もう何もない。 「人間」と「生命」の忘れられた夢の上で サヒールの赤い「眼」は永遠に血を流す。 |
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