2012.9.14[Fri]
『記憶の備忘録』

前回触れた「未完成」というキーワード…。
それは私にとって一体何を意味するものなのだろうか…。
私の場合、そのような想いに一度囚われてしまうと、
何故かしばらくの間、漂流する感覚に陥ってしまう癖があり、
過去の「記憶」を深く辿り、えぐり出す方向へ向ってしまう。
しかしながら、それは私自身の中でどのような位置づけを持つものなのか
未だに説明のつかない問題とも言えるのだ…。

記憶を辿った先に見つかるものと言えば、
本当に些細な、どうでもよいことばかりだが、
経験上それらは私の創作活動の原動力になり得ることが多くある。
そして、今回もそれはやってきた。
不意に、全く不意に、脈絡なく、幼き頃のある記憶が鮮烈に蘇ってきたのだ。
複雑怪奇な内容と思われても仕方のないイマージュの連鎖だが、
己の中で非常に明確に立ち上がって来た世界。
以下は私自身の幼少の記憶を通して見えてきた備忘録である…。
果たしてこれらのイマージュは
今後どのような不可思議な世界を私にもたらしてくれるのだろうか。

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ルーペのレンズを突き抜けた白銀に輝く太陽光の粒子は、
まるで漏斗に注がれたエーテルのごとく
抵抗することを許されず屈折を余儀なくされ、
目に見えぬ円錐形となってある地点で収束し、
獲物を狙う豹の眼のような眩く美しい灼熱の焦点として立ち現れる。

ルーペを持った手は、意識的に辛うじて安定を保つ努力をしつつも、
呼吸や鼓動、更には筋肉の動きのために
時折揺れ動くことまでは制御できず、
その度に焦点は正円と楕円の間を微細に往復し続けることを強いられる。

その変容を見つめ続ける我が虹彩によって囲まれた孔は
たちまちのうちに収縮し、屈折を受けた虚像は
神聖にして不可侵な闇夜とは無関係の扉を開き始め、
まとわりつく周囲の空気の密度はそれとは対照的に、
眠るような幻影の中心を静かな流れに沿って
急速に色彩と輝きを失い、失速し、
胎動のような微かなノイズを受けて熱を帯びゆく。
遠ざかる気息。
北緯36度、東経103度の月面クレーターの明と暗。

得体の知れぬ磔台に釘付けされた黒き紙片。
獰猛な焦点の輝く虚空に身を委ね、叫び声も上げず、
瞬く間に爛れ、灼き尽くされ、ただただ静寂の中、
鼻腔をつく煤けた紫色の煙を吐き出し、ミゼレーレの微笑と共に灰と化す。

ふと我に返り、深淵の青黒き空の壁のさなかに残る
幾多の突き当りの暗闇を見やると、
眼球の裏側は乗算された透明な深緑色の薄膜で支配し尽くされ、
全ての存在や輪郭もあやふやな、幻想とも夢想ともつかぬ
息を呑むような何かが漂い、やがて立ち消える。

ふたつの焦点の軋んだ沈黙。
光軸上に下ろした垂線のサーベル。
青ざめた無垢な夢見る純粋気体。
水、気、火、土。
文脈から剥がれ落ちた呪われた無限宇宙に舞い降りるオーロラ。
ジョルダーノ・ブルーノ…。

2012.9.1[Sat]
『未完成…原点への回帰』

すれ違いざまに目が合う見知らぬ人の蒼き陰。
蜘蛛の巣に捕らえられた蝶の透明な鱗粉。
揺らめく木漏れ日の緑の香り。
重ねた手のぬくもりを見つめ返すこと。
蕾みが花開き、そして枯れてゆくということ。
何があっても信じ抜くということ。
弱音を吐くということ。
生きる原点のメロディーを口ずさむこと。
銃を捨て去るということ。
後悔の念にさいなまれること。
過去の記憶の断片がこぼれ落ちること。
身体の中を血液が巡るということ。
飛行機雲が消えるまで眺め続けること。

ありふれた日常…。

私が人生で初めて手に入れたレコード。
それは確か5〜6歳ぐらいの時のことで、
故郷の「石巻市民交響楽団」の定期演奏会で聴いた
ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」が大いに気に入り、
親にせがんで買ってもらったのだと記憶している。
そのレコードジャケットは暗闇の中で
カラヤンがスポットライトを浴びているもので、
何故か他に例えようのない独特の甘い香りがした。

ただ、今回は「運命」にまつわる話ではなく、
そのレコードのB面に、当時の私にとっては
「おまけ」と言った感じで収録されていた
シューベルトの交響曲第7番「未完成」にある。

お気に入りの「運命」は何度も繰り返し聴いた反面
「未完成」については「たまには聴いてみるか」といった程度で、
第一楽章のオーボエの旋律だけ聴いて終わることが多かった。
ただ、不思議な丸みを帯びたオーボエの旋律は強烈な印象があり、
不思議な違和感を覚えたのも事実である。
言葉ではうまく言えないが、
時間軸が逆転しているような
自分自身の呼吸や鼓動とは速度も質も違う
「何か」が存在したと言えるのかもしれない。

そして、それは同時に私が「未完成」という単語に
初めて出くわした場面でもあったと思う。
その当時は「未完成」という単語の意味そのものすら
意識、理解できる年齢でなかったかもしれないし、
単に「ミカンセイ」という「ミカン」のような
甘酸っぱいオレンジ色の言葉の響きだけが
屈折したカタチで身体に染みついていたように思う。
その記憶の中に絡みついたその認識は恐ろしいもので、
今も私の中では「未完成」は「ミカンセイ」という
カタカナ的な幼稚な響きのままなのだ。

ここで一旦、話は私の「創作活動」に変わる。
実は私の創作活動はどうも変わり目に差し掛かっているのようなのだ。
私がこのようなことを長々と書いたのは、
ここしばらくの間ずっと抱いてきた想いがあるからで、
もしかしたら自分は、知らず知らずのうちに
「佐々木岳久」という世界の焼き直しに陥っているのではないか…
本能で何かを感じて表現しているのではなく、
余計な計算が働いた、単なる「モノづくり」になっているのでは…
という想いがあるからだ。

手法や技術に慣れが生じ、ある意味想定した通りに「完成」してしまう。
成功もなければ大きな失敗もない。
ねじ伏せることも忘れ、スリリングさに欠ける。
創る意味を感じ得ない…。

私は「秩序」と「安定」を求めている訳ではないのだ。
もっと泥臭く無様でも良いから自己をさらけ出すということなのだ。
感じているのはそこである。

今の私に一番必要なのは、
「未完成」の連続なのかもしれないということだ。
試行錯誤の末の残骸のようなものだけが、
ただただ積み重なるような…
「今回も核心に届かなかった」…という「もどかしさ」だ。

人間は言葉を持ったことで、知能を発達させ、
地球が球体であることや、宇宙の存在、
更には宇宙の果ての存在有無までも知ることが出来た。
だが、それは言葉を通して物を見て、
単に「分かったつもり」になっているだけで、
本質を見ている訳ではないのだろう。

言葉を持たぬ動物達は本能的にこの世界をどう捉えているのだろうか。
それと同じことを体感することは不可能なことだと知りつつも、
もっと感じるままに、素直に向き合うことを楽しみたい。
「完成」することなど必要ない。
それが目的地ではないのだ。
「未完成」の繰り返しの先にあるものに
向き合うことの方が大切なのだ。
もちろん動物達にとっては「未完成」という概念すらないのだろうが…。

私は既に来春、3週間に渡る個展が決定している。
私にとっての「未完成」ならぬ「ミカンセイ」とは一体何なのか。
しばらくの間、あがいてみようと思っている。

今回アップした画像は、
私の制作のベースになっているアイデアノート。
私の作品のエッセンスは全てここから発生している。
私にとって「未完への回帰」は「原点への回帰」でもあるのだ。



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