2013.9.27[Fri]
『香港アートフェア参加のお知らせ』

ギャラリーユニグラバスの所属作家として、
香港のJW Marriott Hotelで行われるアートフェアに参加致します。
詳細は下記となります。

【Asia Contemporary Art Show HongKong】
会期:10/3(木)〜10/6(日)
会場:JW Marriott Hotel Hong Kong Room♯2906
http://asiacontemporaryart.com

2013.9.11[Wed]
『ベルクソンの純粋持続』

一旦は完成とした過去の作品に再び手を加える日々が続いている。
試行錯誤は遅々としているが、何と言っても最後の願いは
不可能なことだと知りつつも「真実在を知ること」に変わりはない訳だから
それはそれで豊かな可能性を孕んだ時間を過ごせていると言えるのかもしれない。
ただ実際には、求めている真実在というものは
実に捉えどころなく変化し、常に動いているようであり、
枠にピッタリおさまった試しがない。
すきのない法則からも簡単にスルリと逃げ去ってゆくような
裏切りと手強さが存在しているように思う。
だからこそアートは面白いし信じられると感じるのだが…。

近頃、気になっている存在がある。
フランスの哲学者、アンリ=ルイ・ベルクソン(Henri-Louis Bergson 1859年〜1941年)だ。
ベルクソンの哲学は「生命の哲学」とも「直観の哲学」とも呼ばれている。

ベルクソンは「実在は時間である」と主張した。
特に「純粋持続」(=心の中の時間の感覚)という時間に関する概念は有名であり、
時間を線状に時系列で量的に測れるものとしてではなく、
人間の内面にある直観的なものとして捉えた。
つまり人は、ある瞬間瞬間に別々の経験をしているが、
精神の中ではそれらがつなげられており、
一部分が全体を映し出すような形で存在するのだという。
人間の意識のなかで、時間の流れ方は時計の針のように進んでいるのではなく
明確な輪郭もなく、融合し合い、浸透し合うような
モヤモヤしたものが常に変化している。
それによって時間が流れていると感じるのだ…と。

ベルクソンは時間を「流れる時間」と「流れた時間」に分けている。

「流れる時間」とは、例えば我々が音楽に聴き入る時、
意識は音楽の流れと共に刻々と変化し、過ぎ去っては二度と帰らぬものとなる。
その時間はどこにも切れ目というものはなく、数が増すということもない。

「流れた時間」とは、例えば紙に描かれた線のように時間の変化が投げる痕跡で、
それは消さない限りいつまでも残っていて、いつでも再び取り上げることが出来、
更にはその痕跡に切れ目を入れることも可能なものである。

このように考えると「流れた時間」は、時間ではなく空間なのであり、
「流れる時間」のみが真の時間ということになる。
ベルクソンはこの「流れる時間」のことを「持続」と呼んだ。

話は少し変わるが…
当時、科学者達にとって精神を解明することは非常にやっかいな問題であった。
科学的に立証するにはデータ計測が必要不可欠であるのに、
精神はどのようにしても計測不可能なものであるからだ。
そこで科学者達はどのようにしたら精神を計測出来るかと考え、
それを脳髄の働き(分子運動)に代用し、それらを精密に計測すれば
精神を計測できるはずであるという仮説を立てたのだ。
この仮説を「心身並行論」という。

しかし、これに対しベルクソンは非常に緻密な「失語症」の実証的研究によって
精神(記憶)と脳髄(物質)を持続の緊張と弛緩の両極に位置するものとし、
精神と脳髄の働きは並行していないという天才的な発見をしたのである。
この発見は科学が進歩しつつある現在でも、根本のところは揺るいでいないのだ。

では、脳髄と精神の関係はどうなっているのか。

脳髄はあくまで、身体が外界に対して行動するための注意を向けさせる器官であって、
精神を細部にわたって表現するものではないという。
脳髄に可能なのはただ精神生活のうち運動として演じ得、
また物質化しうるもののみを引き出すこと。

それに対し、精神は時間的にも空間的にも脳髄をはみ出している。
精神は現在において過去や未来を行き来するし、宇宙の彼方をも駆け巡る。
精神とは意識であり、その意識の本質は記憶にある。
精神と脳髄の働きの関係は、オーケストラとコンダクターの指揮棒のようなものだという。
シンフォニーはあらゆる点において指揮棒をはみ出ているのだと。

また、ベルクソンは一度体験された意識は全て記憶として存在しており、
決して消滅することはないとも言っている。
記憶喪失というものがあるが、それは記憶が傷つけられ、失われたのではなく
記憶を呼び覚ます脳のメカニズムが傷つけられたことによるのだ…と。

普段の生活においても喪失してしまったと思われている記憶とは、
あくまで現在の行動に不要であるため、意識的に想起されていないだけなのだという。
これが即ち無意識と呼ばれるものである。
意識とか無意識というのは、ただその時に有用か無用かということ。
すなわち過去の体験の全意識のうちから、現在の行動に役立つもののみ
選り分けて思い出されているという。
そうしてその想起が過去から完全に現在まで浮かび出る時、
それはもはや単なる意識すなわち精神ではなく、
身体的行動すなわち物質的変化となるというものであるという。
言い換えれば、過去が生き直されているということなのだ。
そしてつまり、我々は各々、生きてきた中での記憶…つまり全歴史を背負っているのである。

ベルクソンの哲学はあまりに広大で深く、非常に難解で、
どうあがこうが私自身の頭で理解することは不可能に思える。
これまで書いた内容についても果たしてどれだけ正確に、
また整理して書けているのかは甚だ疑問なのだ。
故に今この場で全てを語りきることは出来ないが「純粋持続」の概念は、
生命論から科学論、数学や物理学、心理学、生理学、生物学にまで達しているのだ。
もし興味を持たれた方がいらしたらベルクソンの著書『物質と記憶』を推奨する。

私は哲学者でも科学者でもないし、
これらについて、これ以上探求し、頭でっかちになるつもりは毛頭ない。
ただし「記憶」というものに興味を持ち、テーマとして掲げている私にとって
何かしらのきっかけを与えてくれるものであることに間違いはないようである。
私の作品制作における記憶とは、すべてが同一平面に位置し、
会話も感情も、まぼろしも思い出も同時的に共存する万華鏡世界。
私は今後も、ただただ無心に作品を創り続けるのみだ。

いつかまた、私がベルクソンについて語ることがあるかどうかは分からないが
今の私の心の中で大きな存在感を占めているので紹介させていただいた。
大変恐縮ではあるが、今回はこれでお開きとさせていただこう。

ご拝読に感謝。



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