2013.11.22[Fri]
『幻滅と苦笑の愉しみ』 

創作という行為は勢い良くどんどん進む場合と
訳の分からぬ迷いが生じて沈黙してしまう場合とがある。
今現在の私の創作は明らかに後者に位置しているように思える。
それはある意味、創り手にとって人生の風の吹き回しみたいなものであろうか?
だが、この極めて自然な気まぐれに乗りかかってみるのも、
得心のいった事があるではないかと思うのだ。

創作は遅々として進まぬが、(私自身、好んでそうしているのだが…)
非常に愉しいと感じている事があることも事実だ。
私は最近、ベルクソンや小林秀雄、正宗白鳥、井伏鱒二など…本ばかり読んでいる。

ただ、これらの文学の底にある「もののあわれ」に触れるということは大変難しい問題だ。
単に文字を追うのではなく、一体この人は何を言いたかったのであるかという行間にまで
思考をこらして読むというのは至難の技である。
しかも、私は頭が悪いから、時に字引きしながら、
何度も何度も舐めるように読み返し、また眺めるしかない。
だが、こんな無知な私でも、不思議な事にこれらの文学が制作された「密室」へ
向き直させられるような、ある力を感ずることができるような瞬間がある。
この「密室」が、美術家にとっては、畢竟、アトリエということなのであろう。

単に感情だけ動かされていては駄目だ。
その「心持ち」に触れるためには、どうしてもその奥にある「認識」が必要になってくる。
その認識がなければ、創作にどうして辿り着くことができようか。

最近、小林秀雄が25歳の時に書いた「悪の華」一面(昭和2年発表)を読んだ。
これは、詩人「ボードレール」についての文芸批評であるが、
小林秀雄がいかにベルクソンから多大な影響を受けたのかが感ぜられて、これが非常に面白かった。
私は精神や記憶や意識といったことに興味を持ち、作品を創り続けて来たが、
この物質にも空間にも還元することが不可能な問題を考えるにつけ、
己に対しても、己の作品の未熟さに対しても『幻滅と苦笑』が度々脳裏をよぎる。
そして、私は物質も空間もない作品を創りたいという空想とも夢想ともつかぬ想いを
馬鹿みたいに真剣に考えているのだが、これが何とも非常に愉しい事なのである。
そんな作品を創るなど、到底不可能な事なのだが。

以下、小林秀雄の「悪の華」一面(新潮社)より一部抜粋したものである。
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 かかる時ボオドレエルに課せられた問題はあらゆる思索家の問題である。即ち認識というものに他ならぬ。異る処は唯思索家は認識を栄光とするが詩人はこれを悲劇とする。この二つの相違した資質にとって眼前に等しく永遠のXが展開されるのだが、このXを変調せんとして二人はめいめいの逆説を演じなければならない。
 由来考えるという事は生命への反逆であるが、この事実が思索家の無意識の裡にあって彼の思索に初動を与えて了う。彼はXを敢然と死物となし生命を求めて上昇するが自然は復讐として或は恩恵として最後の獲得である実在という死を与える。詩人にあっては美神の裡に住んだ彼の追憶がXを死物とする事を許さない。彼は考える事で生命を殺しつつ、死を求めて沈下するが自然は復讐として或は恩恵として最後の獲得である虚無という生を与える。

 詩人が認識の悲劇を演ずる時、彼ははじめて「象徴の森」を彷徨するのである。この時仮面を着ていないものは唯彷徨という事実のみしかない。彼の素朴なる実在論的夢が破れた時、彼の魂の空洞はあらゆる存在の形骸で満たされるのだ。彼には図式を辿って考える事は了解出来ない。対象を定めて考える事は了解できない。何故なら彼の魂は最初に於いて充満しているからだ。彼にとって考えるという事は全意識の自らなる発展である。この意識の夢ではあらゆる因果反応は消失して全反応の恐ろしく神速な交代が殆ど不動とも見れる流れを作る。眼前に現れたXという自然はそのまま忽ち魂の体系中に移入される。彼は彼の魂が持つだけの大きさの自然という象徴をもつ。現実とは此等無数の象徴の要約として辛くも了解出来るものとなる。あらゆる存在が象徴となった時、自然という実質は消失するから唯一であった甲という存在も無数となる事が出来るし、甲という存在を乙という存在に合する事も出来る。魚から海を引く事も可能であろう。ダイヤモンドで犬を微分する事も可能であろう。

(中略)

かくして畢に彼は己れの姿を最も羸弱な裸形としてすら捕える事が出来るであろうか?捕えた裸形は忽ち又一象徴として分解して了うであろう。彼は生命の捕え難きを嘆ずるが死も又彼の所有とはならない。彼は今時間の微分子からなる空間となり、空間の微分子からなる時間となる。かかる時彼は存在するのか?存在しないのか?「おお吾が心の生と死よ!」

 この時人間の魂は最も正しい忘我を強請される。彼は一種の虚無を得る。
 この時突然彼が遠く見捨てて来た卑俗なる街衢の轍の跡が驚く可き個性を持って浮び上がって来る。先に意の儘に改変さる可きものとして彼の魂の裡に流動していた世界は、今如何とも為難い色と形とをもって浮び上がる。かくして彼を取り巻いて行くものは既に象徴的心理の群れではない。現実という永遠な現前である。その背後に何物も隠さない現象という死の姿だ。純粋な空間図式である。
 この時彼は世界の鏡ではない。世界が彼の鏡でもない。嘗てXという象徴世界が彼の魂そのものとなり今一種の虚無となって終熄せんとする時Yが現前するのである。
 一種の虚無である、だが虚無ではない。Xは生存を続けねばならない。ここにXは思索するという獲得の形式を捨てて創造という消費の形式に変ずるものである。

 極度の忘我とは極度の期待に他ならない。これが生を享けて止まる事を知らない塊の定命だ。ボオドレエルの天才が獲得した倦怠とはこの極度の期待に他ならぬ。彼は倦怠の裡に、遠い昔、時間の流れの如何なる場所、如何なる日にか魂と肉体とが離別した事を追懐する。一人は開眼を求めて生き、一人は睡眠を求めて死んだ。彼は自身の分身を眺めてこれを思慕する。
 芸術を生むものは迅速に夢みたために罰せられた魂の祷りである。物質に対する情熱である。創造するとは死物に新たなる死物を加えんとする事である。

 ボオドレエルの掴んだアンニュイ(退屈)とは決してモノトニイ(単調)ではない。それは極度の緊張である。魂が現実という現前の死物への託身である。人間情熱の最も謙譲なる形式である。魂は心臓の鼓動と同じ速力を持って夢みる。



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