2014.5.29[Thu]
『遠ざかる月…そして現在の私』

個展開催から2日が過ぎた。

月は1年に約3.8センチという距離で地球から遠ざかっているという。
これはアポロ計画の宇宙飛行士が月面に設置した
反射鏡(レーザー光線測定用)によって明らかとなったもの。

皇帝ネロの在位から現在までの間に、およそ74メートル以上離れた計算になる。
この74メートルという空間は分割可能である。
しかし、過ぎ去った時は分割不可能である。

この際…話は、ネロでも、ジョルダーノ・ブルーノでも良い。
過去の歴史を自分自身の心の中で蘇らそうとする時、
現在、ここに存在している私とは何か…ということが必ず脳裏をよぎる。
これは全くもって不思議なことである。

この「現在」ということについて…。
ベルクソンの語っていることは非常に多くのことを教えてくれているように感ずる。
以下、ベルクソンの『物質と記憶』(白水社/田島節夫 訳)より一部抜粋。

「現在とはなにか」
これはつまり、私の現在が、私の身体についてもつ意識にあるということである。
私の身体は空間にひろがっていて、感覚を蒙り、また同時に運動を行う。
感覚と運動はこの延長の定まった諸点に限局されるから、
特定の瞬間には、運動と感覚の体系は一つしかありえない。
だからこそ私の現在は、私には、絶対的に決定されているように見え、
私の過去とは際立った対照をなしているのだ。
私の身体は自分が影響をこうむる物質と、影響を及ぼす物質との間にあって、
行動の中心、すなわち受けとった運動が巧みに道を選んで姿をかえ、
既遂の運動となるための場所である。
だからそれは、まさに私の生成の現在の瞬間、私の持続の中で
形成途上にあるものをあらわしている。
より一般的には、現実そのものである生成のこの連続の中で、
現在の瞬間というのは、流れていく流体に私たちの知覚が行う
ほとんど一瞬の切断からなるものであり、
この切断こそまさに私たちが物質的世界とよぶものなのだ。
私たちの身体はその中心を占めている。
それは、この物質的世界の中で、私たちがじかにその流れるのを感ずる部分である。
その現実的状態こそ、私たちの現在の現実性をなしているのだ。
私たちの見解では、物質は、空間中にひろがる限りにおいて、
たえず再開される現在として定義されるのにたいし、
反対に私たちの現在は、私たちの存在の物質性そのもの、
すなわち感覚と運動の総体であって、他の何ものでもないのである。
そしてこの総体は、持続の各瞬間に唯一のものとして定まっている。
その理由はまさに感覚と運動が空間の場所を占めるものであり、
同じ場所に同時に多くのものがあるわけにはいかないからだ。

2014.5.27[Tue]
『個展…明日から』

いよいよ明日から個展が開幕いたします。
ご高覧いただけければ幸いです。

----------------------------------------------------------------------------------------------
『黄金宮殿(ドムス・アウレア)- エスクイリヌスの丘を彷徨する666(NERO)の荊棘』
5月28日(水)〜6月15日(日)
※月曜・火曜 休廊
open 11:00-19:00(ただし6/14は16:00、6/15は17:00まで)

ギャラリーカフェ ストーク
〒365-0037
埼玉県鴻巣市人形 4-4-113
TEL.090-1122-9127
http://www1.tcat.ne.jp/stork
●JR高崎線「鴻巣駅」東口から2km
----------------------------------------------------------------------------------------------

2014.5.22[Thu]
『月』

「月」が見たいと思い外に出た。
しかし、残念ながら今夜は何処にも見あたらなかった。

何故このような書き出しになったかというと、
夕飯を食い終わり横になっていた私の記憶の肌に、
何の前触れもなしに黄金色に輝く「月」がヒヤリと触れてきたからである。
無限宇宙が純粋気体で満たされている…。
エーテルの匂いが鼻先をかすめたような気がした。

想像の中で慎重に呼吸をのみ込むように、
北緯36度、東経103度に位置する直径20kmの巨大な月面クレーターを点検する。
クレーターの名は「ジョルダーノ・ブルーノ」…。

ジョルダーノ・ブルーノ(1548年–1600年2月17日)…。
昨年の個展でテーマとして取り上げた人物である。
イタリア出身の哲学者、ドミニコ会の修道士。
それまで有限と考えられていた宇宙が無限であると主張し、
コペルニクスの地動説を擁護。
異端であるとの判決を受けても
決して自説を撤回しなかったため、火刑に処せられた。

彼が異端者として幽閉されたサンタンジェロ城。
ここはドムス・アウレアから直線距離で約2.5キロ。
そして火刑されたカンポ・ディ・フィオーリ広場。
ここはドムス・アウレアから直線距離で約2キロに位置している。

私は黄金色に輝く月の光の下で
鉛のような重々しさで冷たく照り返るローマの詩弦を想ってゾクリとする。
だが、明日もし「月」が見れたとしても、今夜のような想いは得られまい。

白湯を飲んで寝ることとする。

2014.5.16[Fri]
『黄金の飛行船』

ここ最近、Led Zeppelinばかり聴いているとカトリーヌ氏に話したら、
ウンベルト・ノビレ(1885年1月21日-1978年7月30日)の
北極探検における遭難事件のことを教えてくれた。

早速、氏が翻訳した文章のコピーを頂戴し拝読させていただく。
ウンベルト・ノビレが北極を目指した手段は「イタリア号」という名の飛行船。
ミラノを1928年5月23日に出発。
北極点上空飛行には成功したが、5月25日に強風のために遭難。
詳細はここでは省くが、何とも興味深い内容であった。

ふと思い出してみれば今回、私は黄金色の版画で
「飛行船」をモチーフに作品を作っていた。

そう言えば、Led Zeppelinの名曲『Stairway to Heaven』…
歌詞の中には「Gold」という単語が二度出ている。
黄金の飛行船…?
こういう偶然はいつでも面白い。

Led Zeppelin『Stairway to Heaven』
https://www.youtube.com/watch?v=w9TGj2jrJk8

2014.5.14[Wed]
『独り言』

以前読んだベルクソンの著書『物質と記憶』をペラペラめくっている。
…と言っても、今日は疲れた頭。
ただ、赤線マーキングをぼんやりと眺めているだけ。
故に…まとまりのない独り言となりそうである。

制作する時に一番難しいと感ずることは、
いかに対象そのものをありのまま歪めずに捉えるかということだ。
虚ろな目でぼんやりと眺めていても仕方がない。
主観や独断を捨てて対象の中に自己を没入すること。
考えることをやめ、飛び込むこと。

ベルクソンは言っている。
「直観的に思索することは持続において思索することである」…と。

自己の意識で行動することは現実生活では極めて稀だ。
それは畢竟、我々には極めて稀にしか自由はないということだ。

永久に亀に追いつけないアキレウスの気持ちである。
何と難題なことでありましょう。

2014.5.1[Thu]
『歴史を見つめ直すこと』

映画『テルマエロマエU』が先日公開されたとか?

ネロ(第5代皇帝)と言えば、まさしくローマ帝国時代において
「暴君」の代表格のように呼ばれている皇帝である。
確かに中学や高校の教科書の表記も「暴君ネロ」だったし、
そのような印象は誰しもが当然のごとく抱いていると思う。
ただし、暴君に価する皇帝はネロの他にもいる訳で、
何故、ネロがこんなにも「暴君」として有名になってしまったのかが、
私にとっては不思議で面白いところでもある。

暴君と聞くと野蛮で冷酷無比な人物を想像してしまうものだが、
ネロは実は、非常にナイーブな性格の持ち主であったらしい。
それが故、自分に対して向けられる反感や悪評、敵意などの声が上がると、
それに耐えられず、極端に攻撃的に走りやすい性癖を持ち合わせていたようなのだ。

確かに…歴史を少し紐解いてみるだけでも、ネロの暴君ぶりは数多くある。
母親アグリッピーナ暗殺、義弟ブリタニキュス暗殺、
ピソ陰謀に関わった多くの元老院議員の処刑、
残虐なキリスト教徒迫害…などなど、
ここでは書ききれないほどである。

だが、意外と知られていないことに、
当時ネロは市民から愛されていた側面もあった。
母親アグリッピーナの野望により、若干16歳10ヵ月で皇帝に就任。
(責任ある公職に就くのは30歳からとされていたローマでは異例の若さ)
隣国の脅威…パルティア王国、特にアルメニア王国との問題はあったにしろ、
就任後の5年間は善政の時代と評価されている。
それは市民の「食」と「安全」が充分に確保されていたということが大きいようだ。
ティベリウス(第2代皇帝)やクラウディウス(第4代皇帝)が遺した
組織と人材が健在であったため、帝国自体も充分に
機能していたという幸運もあったかららしい。

ここで話は少し脱線する。
ネロはギリシアへの強いあこがれを持っていた。
ギリシア文化のエッセンスを導入し、根付かせることで
ローマを文化国家に変貌させるべきだと考えていた。
私が興味を持つのはここである。

その中のひとつとして、60年に開催された
「ネロ祭」(ローマン・オリンピック)が挙げられる。
ギリシアの「オリンピア競技会」を移植したものであり、
ローマ帝国の男達も古典ギリシアの男達のように
肉体鍛錬に励み、その成果を5年ごとに公衆の面前で披露すべきと考えた。
(ギムナジウムと呼ばれる体育館やローマ式浴場もその際に建設された)
ネロ祭の内容は体育競技(陸上競技、ボクシング、レスリング、馬戦車競争)だけでなく、
詩文、音楽、弁論などの才も競う場としてのものであった。
事実、第二回のネロ祭ではネロ自身が出場。
チェトラという竪琴(アポロン神の持つものと同じ竪琴)を弾きながら
自作の歌を聴衆の前で歌って拍手喝采を浴びたという。
この皇帝のタレント化に元老院はひどく慌てたようだが…。

また別の例を挙げる。
「ドムス・アウレア」である。
事の発端は、64年に起こったローマ大火。
当時、ローマは首都として人口が多く流入してきていたから、
インスラという中流下と下層の住民のための
5〜6階建ての集合住宅が密集して建てられていた。
壁は石造りであったが、床や天井は木材。
この住宅の外側の壁は隣の住宅と共有していた場合が多かったため
瞬く間に火が燃え広がったのだ。
出火当時に吹いていたシロッコと呼ばれるアフリカからの強風にあおられたこともあり、
9日間にわたってローマは火の海と化してしまう。

その際のネロの被災者対策(住処と食の供給)は迅速であった。
被災をまぬがれた神殿や回廊、屋根のある建物はすべて被災者収容に割当て、
大量のテントが張られ、小麦やポタージュ、チーズや野菜、果物などが無料で配られる。
そして小麦の値下げも行っている。

市の再建構想に関しても、ネロはそれまでのローマ人が聞いたこともないような
火事に強く、より快適な美しいローマの建設計画を立て、即座に実行した。
街路の幅を広くしたり、建物の高さ制限、建物間のゆとり空間、
建築素材の変更、貯水槽を設けた内庭の常備など…。
また、財源確保もしっかり行ったため、ローマ再建は市民を巻き込んで急速に進む。
市民には受けがよかった。
ネロに批判的だったタキトゥスも
「人知の限りをつくした有効な施策であった」と書き残しているほどである。

「ドムス・アウレア」もこの際に建設着工されたものである。
ネロの考えたのはギリシア人が「アルカディア」と呼んでいた緑豊かな理想郷。
しかも、ローマ市民が自由に立ち入ることのできる宮殿である。
それをローマ都心部に再現しようとする試みであった。
敷地面積なんと50万平方メートル。
ネロの黄金像、1500メートルにも及ぶ列柱回廊、
広大な人工湖、動物を放し飼いにした自然公園、
贅と技術の粋と夢を結集した黄金宮殿。
天井は回転式で薔薇の花びらが降り注ぐ…。
ネロは、今で言うエコロジストの発想を持ち合わせていた。
この宮殿こそがローマ市民の喜びだと信じて疑わなかったのだ。

ただし、ドムス(私邸)と言葉通りに受け取っていた市民が
ネロが私費ではなく国費を使って再建していると認識したこと。
急務である被災者の住宅再建には尽力したが、
ドムス・アウレア再建も同時に尽力してしまったこと。
庭を持ちたくとも持てない市民の反感。
さらに、全焼地域がドムス・アウレア建設予定地と殆ど一致していたことから、
火をつけたのはネロだという噂が立ってしまったこと。

市民はドムス・アウレアよりも「食」と「安全」を求めていた。
ネロに対しての市民からのはじめての強い敵意。
当時、ネロ27歳。
そういった反感や悪評、敵意には慣れていなかった。
ネロは脅迫観念から、自分の疑いを晴らすため、放火犯としてキリスト教徒の迫害に走る。
その残忍さが、更に市民の心に違う感情を抱かせるものとなってゆく…。

結局、その後のさまざまなクーデターで、
ローマ全軍を敵に回すことになり、68年にネロは自殺(満30歳)。
ドムス・アウレアは遂に完成を見ることなく、
現在ではローマのコロッセオ近くに一部遺跡が残っているだけである。
(ちなみにコロッセオが建築されたのはネロの死後である)
ただし、このドムス・アウレア跡地からは、
後にミケランジェロに影響を与えたラオコーン像が発見されたり、
ラファエロがバチカン宮殿回廊の内装に取り入れた
グロッタ(後にグロテスク装飾と呼ばれるようになったもの)のフレスコ画など、
ルネッサンス美術の発展に大きく影響を遺したものでもあるのだ。

皇帝ネロ…。
ドムス・アウレア…。
今からおよそ2000年ほど昔のことである。
だが、こうやって歴史を見つめ直すことで、
古代人の心持ちを自らの心に迎え、蘇らせることができるのは、
私はとても面白いことだと思っている。



Powered by HL-imgdiary Ver.3.03