2019.2.28[Thu]
『衝撃』

『芸術』とは畢竟
『衝撃』があるか否かの問題である…

『衝撃』にも『二元論』が存在しているのだ…

其れは『快感』を伴ふものと
『嫌悪』を伴ふものである…

わたしは、作品を創る際
其の両方を『混濁』させる手法を取る…

どちらにしても『衝撃』を与えることが
『芸術家』の『使命(ミッション)』であるし…

其れがいかなる形式であっても
成立すれば良いのである…

わたしの『備忘録』を読んで『快感』を感じて貰っても
『嫌悪』を感じて貰っても、一切、構わないといふことなのだ…

故にわたしは『無様』であり
『迂闊』であることを、良しとするのだ…

話は変わり…
わたしは、其の『使命(ミッション)』を
とある『芸術家』から学んだのだ…

彼は『デイヴィッド・ホックニー』や
ミュージシャンの『レニー・クラヴィッツ』や
『デヴィッド・シルヴィアン』『坂本龍一』とも
親交を持つ『芸術家』…

かつて何度か、彼の『個展』に赴き
『言葉』を交わしたことがある…

わたしの『備忘録』である『ノート』も
時間をかけて、隅々まで『観て』くれたことがある…

( 2019.2.4[Mon]『ノート』・参照)

あの『ノート』があって
わたしは、かつて『日仏現代作家展』に
出展できたよふなものだ…

因みに『日仏現代作家展』では
あの『印象派』の中の『ナビ派』に位置する
『モーリス・ドニ(Maurice Denis』の孫に相当する
『アントワーヌ・ポンセ』などと、共に『展示』したのである…

『アントワーヌ・ポンセ』は、かつて
『ヴェネツィア・ヴィエンナーレ』に
出展したこともある偉大な『彫刻家』…

彼の作品は今でも『箱根彫刻の森美術館』に『設置』されている…

若輩者の、わたしは『アントワーヌ・ポンセ』に出逢い
只々、おどおどするばかりであった…

さて、此処で更に大きく『話題』を変えて終ふ…
印象派の『フィンセント・ファン・ゴッホ』…

わたしにとって非常に重要な『画家』である…

わたしは『ゴッホ』ほど
『思慮深く知的』な『画家』を
他に見い出すことが出来ない…

逆に『ゴーギャン』は『野獣』の『画家』である…

『ゴッホ』が遺した
弟『テオドール』や友人『ベルナール』宛の『手紙』…
(掲載画像は、其の手紙…)

此れは、まさに『ゴッホの告白文学』…

『アルル』は『ゴッホ』にとって
まさに愛すべき『日本』其のものを『想起』する対象であった…
そして愛すべき『浮世絵』の世界が、彼を惹きつけた…

そして『ゴッホ』の功績は『画家』のみに留まらず
『印象派』其のものの『価値』を位置付けた『活動』にあるのだ…

『ゴッホ』に於ける『向日葵』とは
貧しき乍らも才能のある『画家』たちが
『共同生活』し乍ら『創作活動』するための
『アトリエ』の壁面を飾る為の
『重要』なモティーフだったのだ…

彼の壮絶な『人生』…
其れは『息』を飲む『衝撃』其のもの…

本日は、いきなりではあるが…
『ゴッホの手紙』から、一部抜粋することにする…

『耳』を切り落とし『退院』してきた辺りの
弟『テオドール』宛の『手紙』である…

―――――――――――――――――――――
『ゴッホの手紙』〜第五七一信  一月十七日

君からの心尽くしの便りと、同封の五十フランとをありがとう。
いま、君の質問全部に答えられると思うのか? 僕には出来ない相談だ。
よく考えた上で解決を引き出したいが、
それにはもう一度よく手紙を読みなおしてみなければならない。

問題に入る前に、まず一年間にどれだけ支出するか、しないかだが、
この一ヵ月だけの様子をみてみたら、おそらくよく調べる方法が見つかるだろう。

いずれにしろ、全く嘆かわしい結果だった。
長い間どんな状態にあったか、ちょっとでも注意を払っていてくれたらよかったろう。

でもいろいろな理由で残念ながら困難がともなっている。
種々臨時の支出がかかるし、僕の絵は一向値打がないし、
時としては血と頭とで莫大な犠牲を払うことすらある。
僕にはどうにもならないし、いったいどう弁解したらいいのだろう。
ところで今月の金銭問題に話を戻そう。
十二月二十三日にはまだ箱の中に一ルイと三スーあった。
その日に君から百フラン札を受け取った。

支出の方は、

家政婦の十二月分の給与をルーランに渡した二十フラン
おなじく一月前半分十フラン
合計三十フラン
入院費二十一フラン
手当をしてくれた看護人へ十フラン
帰宅後、机、ガス、コンロ等の借賃を払った二十フラン
寝具や血の付いたシーツをクリーニングした代金十二フラン五十サンチーム
日常品、例えばブラシーダース、帽子等約十フラン

合計百三フラン五十サンチーム

退院の当日か翌日に、どうしても支払わなければならなかった金額は
百三フラン五十サンチーム。その外、
退院の当日は新しい発作がこわくなかったので、
すっかり安心して、ルーランと愉快に夕食をした。

その結果、八日になると素寒貧になってしまった。
それから一日か二日後に五フラン借りた。
それでもまだ十日頃だった。
十日頃君から手紙を受け取る予定だったが、
その便りはやっと今日 (十七日)になって着いた。
その間、ひどい絶食までしたから、こんな風では僕の回復はおぼつかない。

既に制作にかかったし、アトリエで習作を三点も仕上げた。
それにレイ氏の肖像を描いて記念に贈った。
苦しみや心配が多少ふえた以外、今度もそうみじめな結果にはならなかった。
それでまだ楽観している。でも衰弱したし、少し心配で気がかりだ。
精力が回復しさえすれば何事もなくすむと思う。

レイ氏によれば、よほど感受性が強くなければあんな発作は起こらないと言うし、
今はただ貧血症だけが残っていて、本当によい食事をとらなくてはならないそうだ。
でも、現在の僕にとって力をつけるのが一番必要なのかどうか、
また全く予想しないような偶然か勘違いから、
また一週間も絶食するようなことがあったら、
そんな場合でもかなり落ちついていて仕事の出来る狂人がたくさんあるものでしょうか、
そうでなくとも僕は一時的に発狂したのではなかったのかどうか、
先生は思い当られることがありませんかなど、
思い切ってレイ医師先生に訊ねて見た。これらの金の支払いは、
あの騒ぎで家中が混乱し、シーツや着物、靴などが汚れてしまったからで、
どうして法外で大袈裟で不当な支出と言えるだろう?
退院してからすぐ、当然払うべきものを僕と同じような貧乏人に払っただけで、
僕の方に間違いがあるか或いはもっと節約できただろうか。

現在、今日は十七日で、僕は五十フラン受け取った。
それでまずコーヒー店のおやじから借りた五フランと、
先週中に借りて飲んだコーヒー十杯分を合わせて、七フラン五十
それに病院から持ち帰ったよごれ物の洗濯代と
先週の靴とズボンの修理代とが、五フラン
十二月分の薪と石炭代、それにまた注文しなければならないので少なくも、四フラン
一月の後半期分の家政婦の給金、十フラン合計二十六フラン五十
この総額を払うと明朝の残高は、二十三フラン五十
今日は十七日だからあと十三日まだ残っている。

一日幾らで暮らさなければならないか想像してみてくれたまえ。
それに君がルーランに送った三十フランがある、
そのうちから彼は十二月分の家賃二十一フラン五十を支払った。

わが親愛な弟よ、これが今月の家計なのだ。
まだある、僕の方からあれほど急ぐなとはっきり断わっておいたのに、
ゴーガンが電報で君を煩わした支出額に接近して来た。
今まで無駄にした金は二百フラン以内かしら?

あの時ゴーガン自身は先輩らしき行動をとったと主張するが、
それなら、それ以上あの馬鹿げた事件に固執しようとは思わない。
たとえ僕はみんなの言うような者だと仮定してみても、
どうして著名なる同僚は、もっと落ちついた行動をとれなかったのだろうか。

この点について僕はこれ以上固執しようとは思わない。
われわれとの接触によってゴーガンを彼の身にあまるほど世話してやった君に、
とても感謝して止まない。 それすら、正常というよりも無理な支出だったと思われる。

ともあれ、僕は一つ希望を抱いている。
われわれがゴーガンを利用している者達でなく、
それどころか生活を保障し、仕事をさせるためなのが......
そして誠実であってもらいたいためなのが、どうして分らないのだろう。

もしそれが、君も知っているようないつもの彼の態度で
言い出した芸術家組合の雄大な趣旨に及ばないとするなら、
もしそれが彼が描いている空想に及ばないとするなら.........
どうしてゴーガンは自分の妄信のため、
君や僕に与えた苦痛や損害に対して責任を感じないのだろう。

もしもこの仮説があまりにも思い切り過ぎたものだったら、
僕はこだわるまい、とにかく様子をみてみよう。

「パリでの銀行家生活」という自称の前歴があって、
事情に通じているつもりらしいが、その方面に関しては君も僕も全然関心がない。
それにしても、以前書き送ったこととそれほど矛盾してはいないだろう。
もしゴーガンがもっと勉強するためとか、
専門医に診断してもらうためにパリへ行ったのなら、
どういう結果になるかわからない。良心の相違から来る、
君や僕だったら出来そうもないことを幾度も繰り返しているのを見たことがある。

彼について二、三これと同じようなうわさを聞いたこともあるが、
極めて近くで彼を観察していると、
おそらく想像力や自尊心のためにひき起こされるらしい......

相当な無責任ぶりを感じる。この結論を別としても、
いかなる場合にも彼の言うことをあまり信用しないでほしい。

ところで、勘定の精算に当っては、
君の方が優れた信念に基づいて行動したと思うし、
「パリの銀行家」の誤算の巻き添えを受ける心配はあるまい。
ところでゴーガンは......なんでも自分のしたい事をすればいいし、独立独歩でやればいい?
(独立という言葉の性格をいったいどんな風に彼は考えているのだろう)
自分の考えが、われわれよりも経験を積んでいるものと思いこんでいるなら、勝手に行動したらいいさ。

ここへ残して行った習作と引きかえに、僕の《ひまわり》を要求したのにはあきれた。
彼の習作 は贈物としてここへ置いて行ったのではないか、
その習作を送り返してやろう。僕がもらっても何の役にも立たないが、
きっと彼にはまだ必要なのだろう。

だが今のところ、僕は自作の画布を保存して置くつもりなので、
当然問題の《ひまわり》も手元 に残す事になる。
彼はすでに《ひまわり》を二点持っているから、それで充分なはずだ。
もし彼が僕との作品交換に満足していないのなら、
マルチニック島で描いた小品とブルターニュから送って来た自画像と引きかえに、
パリで受け取った僕の自画像と、ひまわり1点を返してもらおう。

この問題を彼がもう一度持ち出したら、はっきりそう言ってやる。
いったい、僕のそばにいると邪魔だろうとゴーガンが気兼ねしたのだろうか、
ほんのちょっとでもどんなに会いたがっているか、
繰り返して言ったのを承知の上でそう言った事も、もちろん否定出来ないはずだ。

互いにそのままにして、君を煩わすまいと思ったが、彼は聞き入れなかった。
この種のことで同じ数字を計算したり、しなおしたりするのはもう御免だ。
この手紙で、僕自身のための必要経費と、
僕がそれほど責任を負えない止むを得ず支出した分 があるのとの違いを、
君に知ってもらいたかったのだ。

だれの利益にもならない支出の負担をこんな時に
君にかけてしまったことをとても後悔している。

今後、もし頑張り通せたら、精力の回復次第だんだん見通しがつくと思う。
余分な支出を必要とする生活の変化や引越をとても恐れている。

もうずいぶん長い間全然落ちつけない。仕事の手をゆるめないようにしている、
時にはうまく行くこともあるので、そうして今までに使った費用を
油絵で取り戻せる結果に到達することもあるかと辛抱強く信じている。

ルーランは転勤で、二十一日にはもう出発する。マルセイユ勤務だそうだ。
昇給はわずかだから、一時的にしろ、細君や子供たちと別れなければならない。
一緒に暮らせるようになるのは相当先のことだろう。

マルセイユの方が物価高で支出がかさむから、家族を一緒に連れて行けないのだ。
ルーランにとっては栄転だが、長年勤続のこのような吏員に対して
国家の報いはあまりにも心細いものだ。
きっと心の奥では彼も細君もとてもがっかりしているのだろう。

先週中、ルーランは何度も僕と一緒にいてくれた。
われわれとかかり合いのない医者の問題に
介入すべきでないという君の考えに、僕は全く賛成だ。

ちょうど君がレイ氏に便りしてパリのリヴェ氏らしい人に
紹介すると言ったように解釈したが、リヴェ氏に僕の記念として絵を一点贈呈し、
レイ氏に持って行ってもらえたらとてもありがたいと頼みこむようなへまはしないつもりだ。

もちろん僕はほかの話をしたことはないが、とにかく僕が医者でなくて残念であること、
絵が 美しいと思う人たちには、写実的な習作しか見せなくていいのじゃないか、などと言った。
ゴーガンと一緒に着手したレンブラントと光線の問題の研究を
あまりにも手早く棄てたのは本当に残念だ。

ド・ハーンとアイザックソンがまだいたら、失望しないでもらいたい。
病後、僕の 視覚はとても敏感になった。写真を送ってくれたので、ド・ハーンの葬儀屋をみた。

この顔の中にはレンブラントの真の精神があるようで、
葬儀屋という名の夢遊病者のいる真前の墓穴から
煌々と反射した光で照らされているようだ。

その表現はとても巧妙である。僕は木炭で描く方法を究めようとは思わない。
ところが、彼ド・ハーンは表現方法をこの無色の木炭でやっている。
ド・ハーンに僕の習作を見てもらいたい、
それは明りのついたろうそく台と小説本が二冊(片方は黄色で、一方は桃色の)
ある安楽椅子(ゴーガンの椅子だった)の三十号大のもので、赤と緑だ。

今日もその対になる僕が腰かけていない空の椅子を描き続けたが、それは白木の椅子で、
パイプとたばこ包が置いてある。この二枚の習作で僕は他の場合と同じく、
明るい色による光の効果を求めた。ド・ハーンは君がこの題材について
僕が書き送ったものを読んだら、恐らく僕が求めているものを理解してくれると思う。

この手紙がどんなに長いにしろ、この一ヵ月間を分析しようとした、
それであの奇怪な事件を ややうらんでいる。
ゴーガンは退散し、再び語ることを避けた、僕にはその判定を下す数語が残されている。

彼の長所は、その日その日の支出の調節がうまいことだ。
僕がよく家を 仕上げようと夢中になっている時でも、
彼は僕よりもその日の予算の均衡を上手にやる。

でも彼の短所は、綺麗に揃えたものをなんでも蹴っ飛ばしたり、獣のように爆発することだ。
ひとたび引き受けた部処に停まるべきか、それとも放棄すべきだろうか。
このことに関して人のことをとやかく言うつもりはない。

僕自身、力尽きてもこうした立場に 追いこまれないことを望んでいる、
だがもしもゴーガンに、それほど実際的な勇気と親切心があったら、
それをどんな風に用いるだろうか。僕には彼の行為を、これ以上追求する気はない。

でも或る一点に疑問を残しながら静かに引きさがろう。
お互いに、彼と僕と、時にはフランス芸術や印象派について
意見をしたこともあったが印象派が創設されて落ちつくかどうか、
とてもむずかしいようで、不可能に近い気がする。

英国でラファエル前派が成功しなかったときと同じではないか。
団体が解散してしまったのさ。 あるいは僕がこうした事件にあまりにも心を痛め、
悲観し過ぎるのかも知れない。ゴーガンはヘアルプス山上のタルタランを読んだことがあろうか、
そしてこのタラスコンの有名な友である タルタランを思い出せるかしら、
それはすばらしい想像力の持主だったので、彼は立ちどころに
架空のスイスを想像で描いたではないか?
崖から墜落してから、アルプス山上で発見した綱の結び目を彼はおぼえているだろうか?

君はそれがどんな風なものか知りたいだろうが、いったい、
君はタルタランの小説を読み通し たことがあるのかい?
これでゴーガンがどんな人物かちょっと分るだろう。
これはまじめな話だが、ドオデの本からこの抜粋をもう一度読んでもらいたい。

君が当地に来たとき、獅子狩のタルタランにある、
タラスコンの乗合馬車の習作があったのに 気がついたか。
それからヘヌマ・ルメスタンのなかのボンパルと、
その幸運な空想をおぼえているかい?
つまりゴーガンは別の型に属する人間なのだ、
彼は美しい純粋な空想による南仏を心に抱いていたが、
同じ想像力で今度は北欧で活躍しようとしている!
これからどんな風変りなことを仕 出かすか知れたものではない。

彼の大胆さをどう解剖していいか、
結論を急ぐ必要もないが、印象派のボナパルト型の小虎たる以上は......
それをどんな風に言ったらいいか分らないが、
アルルから退散したことは、
まるでエジプトからパリへ帰った小さな伍長ナポレオンか、
それに似たもののようで、困難な立場にある
自分の指揮下の兵卒を放棄したのと同じようだ。

幸いにしてゴーガン、僕、その他の画家たちは、
機関銃、その他の有害な軍事兵器で武装されていない。
僕はいつも筆とペン以外のもので武装しないと決めた。

ゴーガンは最後の手紙で、僕の黄色い小さな家の小部屋にしまった
「武装用の仮面や手袋」を送り返してほしいと、大声を張りあげて求めて来た。
こんな子供っぽい玩具なら郵便小包で、すぐ送ってやろう。
無論、もっとひどいものを使用しないという条件つきで。
ゴーガンの体力は、我々よりも頑丈で、感情もずっと強いにちがいない。

それに何人かの子供 の父親だし、デンマークに妻子があり、
同時に地球の果てのマルチニック諸島に赴こうとしている。
偶発する矛盾した要求、すなわち欲望から起きる種々な悪癖は恐るべきものなのだ。

金を使わずにこのアルルでわれわれと一緒に定住して制作し、
君が彼の絵を売る面倒をみて儲けていたら、
細君から便りがあっても落ちつき払っていられることだろうねと、
言ってやったこともある。そのうえ、ひどく病苦に悩まされていたので、
痛みの出所と治療を求めなければならなかった。

ところが、ここへ来たら彼の苦痛がとれてしまった。
今日はこのくらいでよそう。

君はゴーガンの友達のラヴァルの住所を知っているかい。
僕が、彼の友人のゴーガンに託した彼への贈物の僕の自画像が
届いていないのにびっくりしていると伝えてほしい。

その絵は今君宛に送るから、君から彼に渡してくれたまえ。
君へは新しく別のを送るから。君の手紙はうれしかった。
考えてみてくれないか、現実的に今残っている二十三フラン五十サンチームで
十三日間生きるのがどれほど不可能なことかを。

来週二十フラン送ってくれれば、何とかやってゆける。
握手を送る。君の手紙をもう一度読みなおしてみて、
他の質問については近いうち回答する。

ヴィンセント

―――――――――――――――――――――
さて、本題へと話を移行する…

『オウディウス』著の『変身物語』に於いて
『アクタイオン』は、彼の犬の『獲物』となり、食い殺される…

然し乍ら『アクタイオン』は
己の思想によって追従され『新境地』へと歩みを進めるのである…

『アクタイオン』は『本来的自己』を獲得し
『神々』のように『変身』し『軽やか』であり
より多くの『粘り強さ』をもって
奥深き『不可視の領域』へと進むのだ…

『アクタイオン』はありふれた
普通の『人間(アントローポス)』だったのであるが…

『英雄』となり『行状』と考えを持ち
人並み外れた『生』を送ることになる…

『アクタイオン』は『狂気』に満ち溢れた
『盲目』で『幻想』だらけの『物質世界』での生を終え
『至高の世界』へと到達し『神酒』に酔うのである…

( 2018.9.12[Wed]『アクタイオンの死』・参照)

以下にリンクする動画は
我が『故郷』の空を『訓練飛行』する
『ブルー・インパルス』の『勇姿』である…

彼らは『演目』するに際して
特に『ファン・ブレイク』といふ『演目』に於いて
約1メートルといふ『近距離』にて『飛行』するのだ…

故に『結託』が
必要不可欠といふことである…
――――――――――――――――――
『ブルー・インパルス(青い衝撃)』
https://www.youtube.com/watch?v=1_fJJ9BvPVM

2019.2.27[Wed]
『アンリ・ベルクソン』

わたしは、いかなる『苦難』に於いても
『翼』を持ち乍ら、飛び立つことが遂行可能なよふに
常に『準備』している積もりである…

其の際に重要になってくるのが
やはり『アンリ・ベルクソン』である…

簡単に説明できるよふなものではないが
触れてみたいと想ふ…

以前にも紹介したが
わたしが9年ほど前に書き連ねた
『ジョルダーノ・ブルーノ』についての『詩歌』…
此れは『アンリ・ベルクソン』の『哲学的要素』を
多分に込めたものなのだ…

( 2019.2.8[Fri]『ジョルダーノ・ブルーノの純粋気体の滴り』・参照)

さて 『アンリ・ベルクソン』の『哲学』は
『物』を『認識(グノーシス)』する為に
根底的に異なる二つの見方…

畢竟『二元論』を説いている…

『物』の見方には『概念』で外側から捉える『分析』と
『直感』で内側から『成立』を捉えるものが存在している…

前者は『物』と『物』の『関係性』を
科学的見地から『分析』するのが得意分野である…

然し乍ら『本来的自己』を対象とする場合には
『科学的分析』では『対応の外側』である…

もちろん『心理学者』や『経験論者』は
『本来的自己』を心理的要素に『分解』して『分析』をしてはいる…

然し乍ら、其れでは『純粋持続』に於いて
絶え間なく変化する『本来的自己』を
『認識(グノーシス)』することは
どだい無理な話なのだ…

此れに対して、ドイツの哲学者『カント』は
『形式的人格』という『アブストラクトな自己』を打ち立てるが
其れは『内容』を伴っていない為
結果的には『心理学者』『経験論者』と
同じ結果となるのである…

( 2019.2.24[Sun]『ジョルダーノ・ブルーノのロバ性(カバラ)』・参照)

其処で『アンリ・ベルクソン』の
『直観』の重要性が立ち現れてくるのだ…

『直観』によって内から『本来的自己』を捉えてみれば
其処に観えてくるものは『不断的流動』…

畢竟『仮初めの生』である…

此の『不断的流動』こそ『実在』の真実の姿であり
『純粋持続』なのである…

『アンリ・ベルクソン』の『純粋持続』は
『緊張』を強めると『永遠』となり
弛めると『物質』になるのだ…

此れが『創造的進化』…
『エラン・ヴィタール(生命の飛躍)』の真意である…

あらゆる『生命体』は、己の『身体』といふ『物質』と
『魂(記憶)』といふ『非物質』を保持し
此の世界の一つの『表象(イマージュ)』として存在している…

己以外の『表象(イマージュ)』を『知覚』し
其れを『過去の記憶』に問いかけ
どのよふに『反射』すべきかを
瞬間瞬間に『判断』し『行動』しているのである…

『運動機構』に於いての現在の対象の『再認』は
其れが『対象』から生じる場合に於いて行われ…

『独立的記憶』に於いての現在の対象の『再認』は
『主体』から発する場合は『表象(イマージュ)』によって行われる…

『身体』もまた『表象(イマージュ)』に作用する対象と
其れが影響する対象との間に介在する『伝導体』に過ぎないのだ…

『脳髄(物質)』をいくら『科学』で『分析』しても
『魂(記憶)』は解明できない…

『魂(記憶)』は『脳髄(物質)』を
はみ出て『存在』している…

では何処に『存在』しているのか…
『何処に』…と問ふこと自体が『意味がない』のである…

『空間』を持たずとも『存在』するものが
此の世界には有るといふことなのだ…

また『人間(アントローポス)』は
各人に於いて『経験』してきたことが違ふのだ…

一方的に『高圧的』に『意図』を語り
完璧に『意思疎通』をできると想ったら
大間違いなのである…

わたしは『余白』の『美学』を信じる…
何でもかんでも『凝縮』した『空間』は
見苦しいものなのだ…

其れ程『無私』を得る『道』は険しいのだ…

『アンリ・ベルクソン』の『哲学』は
非常に『緻密』であり『時代』が変化しても
決して揺るがない『真理』を保持している…

世界を変える『自由』を獲得する『哲学』である…
『テオファニー的』な『時間』の実現とでも云おふか…

以下『アンリ・ベルクソン』著
『物質と記憶』より、一部抜粋…
(以下)
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『物質の問題への移りゆき』

じっさい実在論にとっては、
自然現象の不変の秩序は、
私たちの知覚そのものから区別される原因が、
認識されえぬままにとどまるべきか、
それとも私たちが形而上学的構築の
(いつでも多かれ少なかれ恣意的な)努力によって、
それに到達できるものかは問わず、
ともかくそのような原因の中にある。
反対に観念論にとっては、この知覚が実在のすべてであり、
自然現象の不変の秩序は、私たちが現実的知覚の傍らに
可能的知覚を表現するための象徴にすぎない。
しかし実在論にとっても観念論にとっても、
知覚は真なる幻覚であり、外部へ投射された主観の状態である。
二つの学説が異なるのは、
たんに一方ではこの状態が実在を構成するのにたいし、
他方ではそれは実在と再会しに行くというだけのことである。
けれどもこの錯覚は、さらに認識論一般にひろがる
いまひとつの錯覚を秘めている。
すでにのべたように、物質界を構成するものは、
あらゆる部分が互いに運動を通じて
作用と反作用を交わす諸対象であり、
あるいは、こう言った方がよければ、イマージュなのである。
そして私たちの純粋知覚を構成するものは、
これらのイマージュのただ中で、
輪郭をあらわしはじめる生まれかけの私たちの行動である。
私たちの知覚の現実性は、それゆえ、その活動性、
知覚の延長として生ずる運動にあるわけで、
強度の増大にあるのではない。
過去は観念にすぎないが、現在は観念 - 運動なので ある。
しかしまさにこの点を、ひとは頑強に見まいとする。
というのも、知覚を一種の観想とみなし、
いつも純粋に思弁的な目的をそれに帰して、
それが何か不可思議な公平無私の
認識をめざしていると思いたがるからだ。
まるでそれを行動から切りはなし、
現への執着を断ち切っても、
それを説明不可能かつ無用なものにしてしまうことにはならないかのようである。
しかしこれではもう知覚と記憶とのあらゆる相違は消されてしまう。
過去とは本質的にもはや働かぬものであり、
過去のこの性格を見失うとき、これを現在、
すなわち働くものから現実に区別することは、
不可能になってしまうからである。
そうなると知覚と記憶との間には、
たんなる程度の差しかありえず、
どちらの場合にも主観は自分の外へ出ることができないだろう。
これと反対に、知覚の真の特徴を回復させてみよう。
純粋知覚の中に、現実に深く根を下ろした生まれかけの
行動の体系を示して見よう。
この知覚は想起から根本的に区別されるであろうし、
事物の実在性はもはや構成あるいは再構成されるのではなく、
触れられ、浸透され、生きられることになり、
実在論と観念論の間で解決を見ない問題は、
果てしもなく形而上学的論議の上にのぼるかわりに、
直観によってたちどころに解決をもたらされるはずである。
しかしこのことによってまた、私たちは観念論と実在論との間で
とるべき立場を、はっきりとさとるであろう。
両者がいずれも帰するところは、
精神によって行なわれる構成あるいは再構成しが、
物質に見ないことである。じっさい、私たちが立てた原則によれば、
私たちの知覚の主観性は、とくに私たちの記憶力に負うものであるが、
この原則を徹底することによって、私たちはつぎのように言うだろう。
すなわち、物質の感覚的諸性質そのものは、
もし、私たちの意識を特徴づける待続の特殊なリズムから
それらをとり出すことができるならば、それ自体において、
内から認識 されるものであり、
外から認識されるのではないであろうということである。
じっさい私たちの純 粋な知覚は、どんなに速やかであるとしても、
持続の一定の厚みを占めるものであるから、
私たちの継起する知覚は、これまで仮定してきたように、
けっして事物の現実的諸瞬間ではなくて、私たちの意識の諸瞬間である。
外部知覚における意識の理論上の役割は、
現実の瞬間的な数多の観照を、
記憶力の連続的な糸によって互いにつなぎ合わせることであろう、と私たちは言った。
しかし、じっさいは、私たちにとって、瞬間的なものはけっして存在しない。
私たちがそういう名前でよぶものの中には、すでに私たちの記憶力、
したがって意識の働きがはいってきていて、
無限に分割できる時間のいくらでも多くの瞬間を、
それぞいに延長することによって、相対的に単純な値観の中でとらえているのだ。
では、もっとも厳格な実在論が考えるかもしれぬような物質と、
私たちがもつその知覚との相違は、正確に言ってどこにあるのだろうか。
私たちの知覚は宇宙の生彩に富んだ画面の系列を提供してくれるが、
それらは非連続的である。
私たちの現実の知覚から、私たちは後に来る知覚を引き出すわけにはいかないだろう。
感覚的諸性質の総体の中には、それらの変貌 によってあらわれてくる
新しい性質を予見させるものは、何ひとつ存在しないからである。
これに反して、実在論がふつう仮定するような物質は、
ある瞬間からつぎの瞬間へ数学的演響によって
移ることができるような形で進展する。
なるほど特定の物質と特定の知覚との間に、科学的実在論は
接触点を見いだすことができないだろう。
それはその物質を空間内の同質的変化として展開するが、
他方その知覚を、意識の内のひろがりのない諸感覚にまでしぼってしまうからである。
けれどももし私たちの仮説が正しければ、知覚と物質がどのように区別され、
どのように一致するかは、見やすいことである。
宇宙をつぎつぎにとらえる私たちの知覚がそれぞれ質を異にするのは、
これらの知覚の各々が、それ自身持続のある厚みを占めてひろがっていること、
記憶力がそこに莫大な数の震動を圧縮していて、
これらは継起的であるにもかかわらず全部いっしょに私たちにあらわれることからくる。
知覚から物質へ、主観から客観へ移るためには、
時間のこの不可分の厚みを観念的に分割して、
好きなだけ多くの瞬間をそこに区別し、
一言でいえば記憶力を全くとり除けばよい。
そうすれば物質は、私たちの延長的感覚が多数の瞬間に
配分されればされるほど同質的になり、
実在論の語るあの同質的な震動の体系に、
けっして完全に一致しないことは確かだが、
限りなく近づいていくことになるだろう。
一方に、知られざる運動をもつ空間を立て、
他方にひろがりのない意識を立てるような必要はまったくない。
反対に、まさしくひろがりのある知覚においてこそ、
主観と客観はまず結びつくであろうし、
この場合、知覚の主観的側面は、
記憶力の働きによる収縮からなるものであり、
物質の客観的実在性は、この知覚が内部的に分解して生ずる
多数の継起 的震動と一致するわけである。
私たちがこの書物の最後の部分で引き出すつもりでいる結論は、
少なくと、そうしたものである。
主観と客観、その区別と統一にかんする問題は、
空間よりもむいる時間の関数として提起されなくてはならない。
――――――――――――――――――――――

『アンリ・ベルクソン』の『純粋持続』とは
『失語症』の研究から生まれたのであるが…
其の『緻密さ』は、第一級…

さて、前置きが長すぎた…
『アクタイオンの死』へと移行しよふ…

『ジョルダーノ・ブルーノ』の『放浪』とは
己の外側に『善』と『知恵』と『美』と『野獣』を探し求めるものである…

『アクタイオン』は彼の犬と共に
森の『獣』の現前に偶然にも出くわしたのであるが…

其の時の『アクタイオン』は
『対象』に対しての、あまりの美しさに
我を『忘却』の彼方に置いて終い…

遂には『アクタイオン』自身が『獲物』となり
其れまで『探求』していたものに
『変身』するのを見て終ふのである…

すなわち思考の熱望された『獲物』に『変身』したのだ…

何故ならば、 彼はすでに『本来的自己』を獲得したので
『己』以外に『神性』を探す必要がなくなったからである…

『神と『共鳴』することに成功したときに
『己』自身は『神』となるのである…

『人間(アントローポス)』は
『至高神(プロパトール)』と同じ
『霊(モナド)』を保持しているのだから
此れ以上の『説明』は、一切しなくても問題ないのである…

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『日本国自衛隊』
https://www.youtube.com/watch?v=jb47SqMY8GY

2019.2.26[Tue]
『純粋持続』

掲載画像は
曽祖父が植えた『桜並木』…

毎年『春』には見事に『開花』しているらしいが
何年も観ていない…

さて『花咲爺(はなさかじじい)』といふ『昔話』があるが…

其の『起源』として語り継がれている
『雁取爺(がんとりじじい)』について
触れてみたいと思ふ…

『雁取爺(がんとりじじい)』は『東北地方』…
『遠野』に伝わる『昔話』である…

( 2018.10.25[Thu]『ゲニウス・ロキ』・参照)

『川上』から流れてきた『木の根』から
『犬』が生まれ、其れが『鹿狩り』の際の
『手伝い』をするという『説』である…

『犬』と『鹿』とは、まさに『アクタイオン』…

『雁取爺(がんとりじじい)』は
実に、しみじみと『愉快で趣深い話』である…

『雁取爺』で『検索』するだけで読めるので
是非、一読をお勧めしたいものである…

http://www.chinjuh.mydns.jp/ohanasi/365j/0402.htm

『遠野』に伝わる『昔話』は
『吉本隆明』の『共同幻想論』にも繋がっているのである…

さて『ジョルダーノ・ブルーノ』に
話題を移行してゆこふ…

己の内に閉じこもっていることは
かろうじて其れが『全体』だと信じて
満ち足りることである…

『否定的ロバ性』たちからは
己の精神を高める可能性は一切
存在していないのである…

『神化』が変化し、進行して、ある結果に達するまでの道筋は
困難な探求の用意がある『肯定的ロバ性』たちによってのみ達し得るものである…

畢竟、何も思考せずに
ひたすら『走破』するだけのこと…

『英雄的才能』は
程度が低く、趣味の悪い事柄に於いて
『完璧』になる以上に『英雄的才能』の
気高く犯しがたい位置を示す…

高い『企て』に於いて
つまずいたり挫折したりすることのほうに
『満足』を見出すからである…

『真理の探求』とは 『人間(アントローポス)』にとって
『生成の法則』と完全に全体が程よくつりあって
『矛盾』や『衝突』などがなく
纏まって『生きる』ことを意味している…

『霊(モナド)』や『人間(アントローポス)』に於いて
そして『無限宇宙』に至る『ジョルダーノ・ブルーノ』の思考が

己の『アトム』と『知的形相』の
『リソルジメント』を発見することを目指したことは
非常に重要なことなのだ…

『アトム』の絶え間なき『分解』…

其れは『永遠なるものの不在』を明らかにし
『真理を知』の尽きることのないプロセスの
『認識(グノーシス)』の概念を提供する…

それ以外に同類の存在が認められない『永遠の真理』は
全体の『恒常性』であるが
それは『質料(ヒュレー)』の『恒常性』と
同じ意味を持つのである…

『質料(ヒュレー)』は『限りの無い集合と分解』を超越して
『アトム』の『記憶』の一性の中に保存されているからである…

こふした意味合いから
いよいよ『アンリ・ベルクソン』の『純粋持続』が
重要になってくるのである…

限りの無い『変容』と全体の『恒常性』を
『認識(グノーシス)』することなしには
『自然』をありのままに『熟考(コンテンプレーション)』することは
不可能なのである…

さて、明日はいよいよ…
『アンリ・ベルクソン』の『純粋持続』の一部へ
『移行』してみることとする…

『身』は『削る』ために
存在しているのである…

2019.2.25[Mon]
『アクタイオンの探求』

掲載画像は
『航空自衛隊』の『F-2戦闘機』…
(入間航空祭にて撮影…)

( 2018.11.3[Sat]『故郷の空』・参照)
( 2018.11.4[Sun]『わたしの浪人時代』・参照)

『F-2戦闘機』は公式ではないにせよ
『平成の零戦』や『ハイパーゼロ』と呼称されている…

先日、此の『F-2戦闘機』が
『山口県見島沖』で訓練中に『墜落』して終った…

其の昔、わたしが小学校3年生の時に観た『テレビ・ニュース』…

『浜松航空祭』に於いて
『ブルー・インパルス(T-2)』が『墜落』した『衝撃』…

其の『事故』の前に、地元の『矢本航空祭』で
『ブルー・インパルス(T-2)』の『勇姿』を目の当たりにしていただけに…
尚更のことだったのだ…

さて話題を変えよふ…

誰に頼まれた訳でもないのに
毎日、此のよふに『備忘録』を
書き連ねている訳だが…

正直に言って終えば
『やる気』が起きない時も
しばしばあるのである…

其のよふな時の『最良の対処法』は
何も考えずに『やり始める』ことに尽きる…

『備忘録』といふ名の『導火線』に『着火』すれば
我が『精神』は、たちまち『戦闘態勢』に入る…
何時でも『スクランブル発進』が可能であるといふことだ…

書き連ねるべきことは、わたしの『記憶の中』に
『空間』を持たずに『膨大』に存在している…

其れを『物質化(空間化)』しなければ、勿体ないのだ…

非常にシンプルなことであるが
此れ以上の『真理』は有り得まい…

実は、此れには根拠があり
『脳科学』に於いては『作業興奮』と呼称されている…

『神経興奮』の『連鎖反応』が起きるのだ…
『自動車』の『エンジン』が、初動は
『全開』にならないのと同じことである…

其の『理屈』を『認識(グノーシス)』していても
駄目な場合に於いては『休息』を取るといふ『判断』…

なかなか、難しいことではあるが…
一日の内で、一行でも二行でも良いから
己の『棚卸し(備忘録)』をすることである…

其の『行動』を後押しすることとは…

『コンフォート・ゾーン(快適領域)』から
出ることである…

言い換えれば、己の『縄張り』から
『外』に出ることが必要なのだ…

新たな『挑戦』をするには
必ず『ブレーキ』がかかるのだ…

今現在…
次なる『個展』の『主題(テーマ)』も決まらず
また『制作』に『着手』出来ていない状況と同様なのだ…

『人間(アントローポス)』は
『現状維持』を、どふしても求めて終ふものだ…

此れを乗り越えるには『時間』が『必要』…
故に、諦めずに緩やかに『継続』してゆくことだけ…

此れについては、後日また
『アンリ・ベルクソン』で取り上げてみたいと想っている…

さて…
『ジョルダーノ・ブルーノ』へと話を移していこふ…

『ジョルダーノ・ブルーノ』は『相談』の挙げ句
疑わしい『終着点』や確実ではない『目標』に
一切、触れないことを『決定』したのだ…

例え其れが、其れ自体として
『最善』のことであろうとも…

『熱意』をもって努力を惜しまず
己の『限界』を超越して
『努力』しようとは思考しなかったのである…

其れは己が『決断』も『理性』も
持たないことになる訳だ…

『決断』を欠いた者は
『イデオロギー』と共に
生きてゆかなければならぬ…

『身分』『家格』などが
高く貴いことを保持しないからである…

己のために『運命(ヘイマルメネー)』が示した
『羊飼い』を選択して『イデオロギー』の名の元に
其の『足跡』を、思いわずらうことなく『探求』するのみに留まるのだ…

『イデオロギー』と共に生きることを選択した者たちは
狡猾な『洞穴』に心を奪われてはならない…
『アクタイオン』の奥深い『探求』に入りこんではならない…

荒々しい『今現在(ライオン)』の洞窟で
横になってはならないのだ…

『不幸』は『気高い生まれ』ではなく
『無知』で『牙』や『爪』で『守護』されていないことなのだ…
アプリオリなことである…

それ故『数量』『程度』『度合』
『価値』などの極めて少ないものに
其れらが『万物』のもとであるかのように
満足していれば良いのである…

『貧しさ』を感じない者は、十分に『豊穣』であり
『病』を考えない者は『健やか』なのであるから…
―――――――――――――――――――
『F-2戦闘機』
https://www.youtube.com/watch?v=omchDTB1OjQ

2019.2.24[Sun]
『ジョルダーノ・ブルーノのロバ性(カバラ)』

掲載画像は『長崎』に
『原爆』が投下された直後のもの…

本日は、特に何をするでもなく
『デフォルト・モード・ネットワーク』で過ごそふと試みた…

然し乍ら、わたしの『性格』が
『デフォルト・モード・ネットワーク』に入り込む為には
逆に非常な『努力』を必要とするのだ…

此処、一ヶ月で『5kg』も痩せて終ったので
少し『食生活』を見直してみる必要があるな…と想い
久方ぶりに『自炊』を試みてみたのである…

ただ『精神的』には非常に『充実』の状態である…

然し、此のよふに何でもかんでも
『書き連ねる』ことをしていると
『ゴッホの手紙』を
どふしても『想起』して終ふのだ…

さて此処で、7年前の話になる…

わたしは、かつて『市ヶ谷庁舎』に
頻繁に出入りしていたことがあった…

『防衛省』の案件に携わっていたからである…

ちょうど『東日本大震災』の翌年のこと…

わたしの故郷『石巻市』もまた『津波』で
甚大な『被害』を受けた…

其の際の『救助隊』として
『陸・海・空自衛隊』
『海上保安庁』
『警察』
『消防』

その他、あらゆる『救助隊』が
『故郷』を救ってくれた『恩義』があった…

約30倍〜40倍の『企画・デザイン(コンペ)』…

『説明会』から『初校』提出まで
『5日間』といふ限られた期間で
36頁の『大ラフ』と『企画書』を
仕上げなければならない…

因みに『省庁』に於ける『プレゼンテーション』は
『幹部』数十名を目の前にして
約15分の『プレゼンテーション』が設けられている…

わたしが一方的に『幹部』に対して想いを語り
其の後『幹部』からの『質疑』に応答…

『失う物』など何も無かったから
『緊張』など一切しなかった…

『プレゼンテーション』の翌日には
『防衛省』からの電話が鳴り止まず、結果『受注』…
懐かしき『想い出』である…

あの頃は、まだ若かったのだなぁと
今となっては、苦笑して終ふが…

さて此処で、話を変える…

『ジョルダーノ・ブルーノ』に於ける『思考回路』は
『本来的自己』の探求のもと『上昇』している感がある…

一体、此の先、どのよふな『展開』をしてゆくのであろうか…

さて、此処で少し話を脱線させてみよふと想ふ…
『人類の幸福』とは『絵に描いたよふなもの』であり
非常に難しいことである…

其れを『探求』するに当たり
此の『世界』を『客観視』するといふ『方法論』がある…
此れは、ある程度、容易いことである…

然し乍ら、其れだけでは
『無私』を得る『道』には、絶対に到達しないのだ…

ドイツの哲学者『カント』は
此の世界の『正体』を突き詰める為には
『悟性』のみでは不可能であることを証明した…

畢竟『形而上学』を否定したのである
此れが『カントの認識論』…

『形而上学』…
つまり『科学』の持つ『客観的な悟性』は
『実在』其のものの『真実在』には決して到達しない…

『科学』は『実在』の『関係性』のみに
『限局』されるものであるからだ…

『人間(アントローポス)』の
典型的で普遍的な『科学』に於ける『知識』といふものは
結局のところ、たかが知れているのだ…

何も此処で『科学』を『否定』しているのではない…
然し乍ら『科学』のみでは『真実在』には決して至らないのは
アプリオリなことであるからである…

『科学』は『現象的なもの』のみの
『探求』であることを言っているのである…

故に『カント』以来『形而上学』は
不可能になって終った…

其れ以前『人間(アントローポス)』は
『形而上学』で『実在』其のものの
『真実在』に触れ得ると云ふ『立場』を取っていた…

『カント』は『人間(アントローポス)』の
『悟性』の『知的な構造』を突き詰める…

そして『人間(アントローポス)』は
『悟性』だけでは『真実在』に『到達』不可能であることを証明したのだ…

つまり『純粋直覚』の『メソード(method)』の
重要性を説いたのである…

『純粋直覚』は『悟性』ごとく
明瞭に立ち現われるものではない…

然し乍ら『人間の能力』は『悟性』と『純粋直覚』の
両方を使わなければ『真実在』には達しないのだ…

『悟性』とは『仏教』で云ふところの
『眼識』『耳識』『鼻識』『舌識』『身識』…

『純粋直覚』とは『仏教』で云ふところの
『意識』『末那識』『阿頼耶識』である…

此れは『全人類』が
如何に『生くべきか』の問いである…

『無私』を探求するからには『希望』を捨て去ることなく
永久に付き纏ふ『孤独』に向き合ふことの『試練』に
いかに立ち向かふかといふ『問題』に
ぶち当たるのである…

此の『孤独』と上手く『付き合う』ためには
其れが『当たり前』であるといふことを
『正直』に『認識(グノーシス)』する態度が必要不可欠なのだ…

つまり『原因』は内側であり
『結果』は外側にあるといふこと…

わたしが『哲学』や『芸術』をやる意味は
其処に注目しているからなのだ…

『アンリ・ベルクソン』の『哲学』にも同様なことが言える…
彼の『哲学』もまた『精神』と『肉体』の関係性が
一体どのよふなものであるのかと云ふ
非常に難解な問いなのである…

故に、わたしのよふな『凡人』が
『空漠』と『際限なく』思考しているよりは
『哲学』を学ぶ方が『早道』なのである…

故に『無知』であり『迂闊』であることの
重要性があるのである…

さて、話は逸れて…
『戦争』の起こらなかった『平成』も
残り僅かである…

『流れる時間(純粋持続)』に
身を委ねて、流されるままに生きてみるのは
誠にもって『真実』である…

さて、ここで本題に入ろう…
『ペガスス=Pegasus(ペガサス)』について…

( 2019.1.25[Fri]『多様性とは…』・参照)

満ち足りた状況は
『否定的ロバ性』を巡る思想を想い起こさせる…

何故ならば『人間(アントローポス)』は
此処から『無知』が『幸福』と『感覚的至福』の『母』であることが
理解できるからである…

其れこそが『野獣』たちの『楽園』なのだ…

『ジョルダーノ・ブルーノ』の『天馬のカバラ』は
畢竟、愚か者と愚される『ロバ』が『翼』を持ち
『ペガスス=Pegasus(ペガサス)』に『変身』することなのである…

『ジョルダーノ・ブルーノ』の是等の『現代神智学(カバラ)』は
常に『議論』を先送りし乍らも、明確に打ち立てているのである…

『人間(アントローポス)』は
あらゆる手段を用いて
『自然や理性や感覚』に
反抗的な態度を取るのが『世の常』なのである…

『戦争』が起こる原因とは一体、何であるか?

其れは
フランスの思想家『ポール・ヴィリリオ』が説いた
今此処ではない『いつかどこか』の前方へ
競わせ走らせ、追いたてる原理…

畢竟『速度学(ドロモロジー)』である…

――――――――――――――――――――
『日本国自衛隊』
https://www.youtube.com/watch?v=jb47SqMY8GY

2019.2.23[Sat]
『ジョルダーノ・ブルーノの狂気とは』

掲載画像は
『仏教』に於ける『四天王』の
『広目天(ヴィルーパークシャ)』…

さて、本日は…
昨日の『グノーシス主義』の『古代宇宙論』や
『ヘルメス・トリスメギストス』に相当する箇所を
『仏教』に於いても、見い出せる内容となっている…

( 2018.10.18[Thu]『ヘルメス文書』・参照)
( 2018.12.9[Sun]『三部の教え 其の七』・参照)

掲載した『四天王』の『広目天(ヴィルーパークシャ)』は
『不意打ち』での『一撃必殺』を得意とする『剣客』…
『目力』の意味は其処にある…

さて『仏教』に於いては
『八部鬼衆』を語らずしては始まらない…

『八部鬼衆』は、別名『天龍八部衆』とも呼称され
『仏法』を『守護』する『八神』のこと…

『仏教』が流布する以前の
古代インドの『鬼神』『戦闘神』『音楽神』『動物神』などが
『仏教』に帰依し『護法善神(ごほうぜんじん)』となったもの…

『八部鬼衆』は『釈迦』の主要な『十第弟子』と共に
『釈迦如来』の『眷属(けんぞく)』を務める役割がある…

然し乍ら『八部衆』は、古代インドでは見当たらない…

『中国』で成立したのではないかといふ『説』が
今現在に於いては有力である…

『八部衆』は個別の『八神』ではなく
『八つの種族』のことであり
通常、用いられるのは
『舎利弗問経(しゃりほつもんきょう)』を基本として
以下の、八部構成を成すのである…

――――――――――――――――――――
@『天衆(てんしゅう)』=梵天、帝釈天といふ『天部』の『神格』の総称
A『龍衆(じゃしゅう)』=『蛇』の『神格』であり『釈迦』が『悟り』を拓く時に『守護』した『竜王』
B『夜叉衆(やしゃしゅう)』=古代インドの『悪鬼神』であり『仏教』に帰依して『護法善神』となる
C『乾闥婆衆(いぬいたつばばしゅう)』=『香』を食べるとされ、神々の『酒』、音楽神でもある
D『阿修羅衆(あしゅらしゅう)』=古代インドの『戦闘神』、『太陽神』が起源である。通常、三面六臂であらわされる
E『迦楼羅衆(かるらしゅう)』=インド神話の神鳥『ガルダ』が『仏教』に取り込まれ『仏法守護』となり『煩悩』を食す『霊鳥』である
F『緊那羅衆(きんならしゅう)』=女鬼神。『半人半獣』の生物であり『人非人』とも呼称されている。音楽神。
G『摩羅伽衆(まごらがしゅう)』=『緊那羅衆』と共に『眷属(けんぞく)』の『音楽神』、『竜種』に属する
――――――――――――――――――――

尚、奈良の『興福寺』に於いての
『八部衆』の呼称は前述のものとは異なり
以下となる…
―――――――――――――――
@五部浄(ごぶじょう)
A沙羯羅(しゃがら)
B鳩槃荼(くはんだ)
C乾闥婆(けんだつば)
D阿修羅(あしゅら)
E迦楼羅(かるら)
F緊那羅(きんなら)
G畢婆迦羅(ひばから)
―――――――――――――――

『仏教』に於ける四つの『守護神』…

『四天王』に仕える『八部鬼衆』は
是等の『八部鬼衆』と名称も類似し
一部『重複』するので混同し易い…

然し乍ら『四天王』も『鬼神』であり
『八部鬼衆』とは異なるのである…

さて、前置きが長くなって終った…
本題へ入ろう…

『ジョルダーノ・ブルーノ』の『狂気』とは…

無感覚で『悪徳』な者を『追放』して
誰一人として自らの状態に満ち足りていないのである…

『悪徳』な者は
己の『狂気』の漆黒な空間に
より多く滞在すればするほど、満ち足りて終ふのだ…

己の『悪徳』に全く気づかず『未来』を恐れずに
『Peak experience(現在に於ける至高体験)』を楽しみ…

( 2018.11.12[Mon]『至高体験(Peak-experience)』・参照)

己の『存在』と『境涯』に喜びを見出し
一切の『心配事』を排除することなのだ…

『ジョルダーノ・ブルーノ』の『狂気』とは…

分かりやすく云ふなれば
『善悪の木』による『象徴される対立の感覚』が
『欠如』しているのである…

――――――――――――――――――
『ROMA』
https://www.youtube.com/watch?v=E0KMT1WvocY&frags=pl%2Cwn

2019.2.22[Fri]
『もののあわれ』

掲載画像は『ウロボロス(レヴィアタン)』である…

此の図像は『蛇』や『竜』の意味であり
『古代宇宙論』に於ける『番人』である…

『グノーシス主義』に於いては
『善』と位置付ける『宗派』と
『悪』と位置付ける『宗派』があるのだ…

そして、以下の内容に繋がってくるものである…

( 2018.10.20[Sat]『フロイトとユングの(グノーシス的)無意識心理学』・参照)

さて『ジョルダーノ・ブルーノ』に
想いを巡らせることは
『歴史的事実』の『正誤』と云ふよりも…

彼の『精神』がどのよふな
『もののあわれ』を持っていたか…
…といふことである…

つまり…
『おぼらすむこと何事ぞ』な訳である…
(お想いになっているだろうことは、どんなことですか…)

『ジョルダーノ・ブルーノ』にとって
『真理』は『真理の探求』と
一見『パラレルな関係』にあるよふに想われる…

然し乍ら『無限宇宙』へ向けての
『人間(アントローポス)』の
絶え間ない『純粋持続』は
『探求』を発動させる『モチベーション』である…

其れ故に『探求と欲求』は
『限界』や『到着点』の
境界線を保持して終えば
其の先へは進めないといふことを
意味している…

『人間(アントローポス)』の像は
まさに『アダム』なのである…

『アダム』は『霊(モナド)』を
吹き込まれる以前は
単なる『ロボット』に過ぎない…

とこしえに…
『認識(グノーシス)』可能な何かが提示される『無限宇宙』の内側での
『有為転変』を明確に示している…

『人間(アントローポス)』の『運命(ヘイマルメネー)』 は
決して満ち足りることはない…

『プレーローマ』への帰還を追い求めている訳だ…

故に『質料(ヒュレー)の不満』と
『真理を探求する人間の不満』とは…

相対する双方の間に『優劣』『高下』などの
差のない関係に相当する…

何故ならば『人間(アントローポス)』は
『至高神』と同じ『霊(モナド)』を
保持しているからである…

2019.2.21[Thu]
『無限』

『ジョルダーノ・ブルーノ』は
『真理の探求』には
『限界』があるのか『到着点』があるのか
其の『果てしなさ』について
戸惑ふことなく想いを巡らせている…

実のところ
『認識(グノーシス)』されるべき『絶対の叡智』の残骸に
『獲得』されるべき『善のイデア』が残っていると判断する限り
『人間(アントローポス)』は『真理』を『探求』し
更なる『善のイデア』を『欲求』するのだ…

それ故に『探求と欲求』は
『限界』や『到着点』の境界線を保持して終えば
其の先へは進めないといふことを意味している…

『人間(アントローポス)』は皆
『万物』といふ『欲求』が内在している…

『万物』を『支配』することが
可能であるかのように振舞いつつも
『万物』に『支配』されることを求めている…

そして、幾ら『獲得』したとしても
何かが残っているかぎり
満ち足りることは無い…

此れは以下に於いても同様である…

特殊な『質料(ヒュレー)』は
『物質的』なものであれ
『非物質的』なものであれ

特定の姿を『永遠』に受け入れたとしても
『永遠』に他の姿を受け入れることを求めて
けっして満足していないのだ…

『心魂』と『物質』だけでは
『人間(アントローポス)』は
成立しないのである…

2019.2.20[Wed]
『ジョルダーノ・ブルーノの寛容性』

さて、昨日の続きの話…

『謙虚』『労苦』『忍耐』の他にも
『肯定的ロバ性』を成立させる要素がある…

其れは『寛容性』である…

宇宙は、偏った『哲学』によって
『認識(グノーシス)』されるほど
単純ではないからである…

数多の手法が『認識(グノーシス)』へと
導くことが可能になるのだ…

いかなる基盤や体系を前提としようと
『認識(グノーシス)』を完成させるときには
そふいった『道』を通らざるを得ないのだ…

是等のことは…
既に『ジョルダーノ・ブルーノ』以前の
数多の『古代哲学者』によって検証されてきたことなのだ…

其れは『ヘルメス・トリスメギストス』や
『グノーシス主義者たち』など…

『ジョルダーノ・ブルーノ』は
以下のよふに『寛容性』を説いている…

『道』は唯一であると『他者』を説得しようと望むのは
『野心的』で思い上がった
『虚しい』『嫉妬深い』頭脳がすることなのだと…

此の『唯一の道』を知っているのは
自分であると想い込むのは
『分別を欠いた狂人』のすることなのだ…と

2019.2.19[Tue]
『ジョルダーノ・ブルーノのロバ性』

『ジョルダーノ・ブルーノ』にとって
『平凡で安易』な事柄は『大衆と凡人』のものであった…

『本来的自己』を『探求』する類稀なる者達は
其れ以外には有り得ないという要素が
彼らに『霊(モナド)』の『栄冠』を認めることを
他に取るべき方法が無いよふに、此の『道』を通るのだ…

更に、最終的には『神との合一』に達しないとしても
走り続けなければいけないと説いたのである…

『肯定的ロバたち』は、重要な事柄に力を『集中』し
最後まで『否定的ロバたち』に対して
『抵抗』しなければいけないのだ…

そしてまた…
『賞を獲得すること』ではなく
『臆病者や怠け者』として死なない者達も
『賞賛』されるのである…

何故ならば『臆病者や怠け者』は
自らの欠点によってではなく
『運命(ヘイマルメネー)』の過ちによって
『嫉妬』『憎悪』『嘲笑』
『軽蔑』『悪言』『忘恩』を持ち
物事が最後に行きつくところに達したと
世の中に示すからである…

『ジョルダーノ・ブルーノ』は語る…

それゆえに『謙虚』であり『忍耐強く』ありなさい
なぜならば『労苦』が多ければ多いほど
『報酬』は『ありきたりなもの』ではないからである…と

此処でまた別の要素が重要になってくる…
それは『寛容』である…

2019.2.18[Mon]
『肯定的ロバたちの真理の探求』

わたしが『作品』を創る際に於いて
『技法』は殆ど『自己流』…

昨年の秋に開催した『個展』での
『リトグラフ』も同様である…

『学生時代』は
色々な『技法』にこだわり『絵の具』や『筆』も
今では考えられない代物を使っていた…

然し乍ら、出来上がる『作品』の惨めなこと…

やはり『メチエ(métier)』は
自分の『表現』を見つめることに
『集中』しないと見えて来ないのだ…

さて、本題に入る…

『ジョルダーノ・ブルーノ』は
女神『ケフェウス座』に於いて
『知恵の女神』を感受する熱意に満ち溢れていた…

其のために『貧困』『嫉妬』
『憎悪』『嘲笑』『軽蔑』『悪言』『忘恩』を
『甘受』することを一切、恥じなかった…

何故ならば『ジョルダーノ・ブルーノ』によれば
其れらは『傲れる野獣』の『高慢』に
満ちているものであったからである…

『ジョルダーノ・ブルーノ』は
此れらのことに
『苦労』や『苦痛』や
『追放』があったことを『後悔』していない…

何故ならば『苦労』を通じて
『進歩』し『苦痛』を通じて『経験』し、
『追放』を通じて『学んだ』からである…

彼は『永続的な安らぎ』を
『追放』の中に『ナポリのノラ』を
見い出したのである…

『ジョルダーノ・ブルーノ』にとっての『真理の探求』は
『真理』に於ける『困難』を耐える
『肯定的ロバたち』のもの…

此の『困難』つまりは『真理』の『認識(グノーシス)』は、
『ジョルダーノ・ブルーノ』のように
其れを背負うことができる者達に限られるからだ…

然し乍ら『否定的ロバたち』からの『中傷』は
『隠蔽の技術』によって
いかよふにも『回避』できるのだ…

『ジョルダーノ・ブルーノ』にとって
重要なことは『賞を獲得すること』ではなく
『臆病者や怠け者』として死なないことであったのだ…

2019.2.17[Sun]
『ジョルダーノ・ブルーノの探求』

『肯定的ロバ性』と『否定的ロバ性』との対立に於いて
『ジョルダーノ・ブルーノ』は『肯定的ロバ性』に対して
『理性』を通じて『認識(グノーシス)』の可能性を認めている…

『真理』の静観的態度に向けて
『教説』と『認識(グノーシス)』を通じて…

言い換えれば…
内的な『本来的自己』を喚起すことにより
『霊(モナド)』を『探求』することに他ならない…

『ジョルダーノ・ブルーノ』によれば
此のよふな者たちは稀であり
『狂気の多様性』の分析を取り上げている…

『狂気』の種類は、二種類に集約される…

一方は『愚かさ』であり
もう一方は『明瞭で知的な精神』…

『明瞭で知的な精神』は
『竪琴』で甘美な音を奏でることができる…

『ジョルダーノ・ブルーノ』は
『新婦の部屋』に近似した世界についても触れており
『神性』に到達するために『人間(アントローポス)』に提供された
唯一の『威厳の道』と説いている…

( 2018.11.25[Sun]『フィリポの福音書』・参照)

『ジョルダーノ・ブルーノ』の関心は『知の探求』に於いて
『自らの人間性の卓越性』を保持する人間たちに集中する…

畢竟『ロバ性』『狂気』『無知』である…

( 2019.2.2[Sat]『ロバ性、狂気、無知』・参照)

『ジョルダーノ・ブルーノ』著の
『傲れる野獣の追放』に於いて…

哀れな女神『ケフェウス座』の場所は
『知恵』が『相続』するべきと議論されている…

女神『ケフェウス座』もまた
『真理』の『美徳』の分与なのである…

女神『ケフェウス座』は
『逆境』や『苦しみ』や『中傷』や『労苦』の中で
常に『真理』と交流していたからである…

此処で、ふと想い出されるのが
『グノーシス主義』に於ける
『ソフィア』の転落による『物質世界』の創造である…

( 2018.9.21[Fri]『宇宙論』・参照)

其れから、また少し話は逸れるが、此れに近似した
『ナルキッソス少年の悲劇性(転落)』が挙げられる…

( 2018.11.16[Fri]『自己と星辰界との敵対』・参照)

『知恵』とは『認識(グノーシス)』の困難な道を歩き通す
唯一の可能性であることを意味している…

其れを己のために『探求』せざる者たちには『真理』は示されず
『謙虚』に開かない者には明らかにされない…
つまり『時間と議論と熱意と労苦』を課せられるといふことである…

『人間(アントローポス)』は
『真理の狩猟』に於ける『最適な道具』を持たねばならぬ…

つまり『オウディウス』著の『変身物語』の
『アクタイオンの神話』と同様の議論が成されているのだ…

( 2018.9.12[Wed]『アクタイオンの死』・参照)

『ジョルダーノ・ブルーノ』の苦悩に満ちた『真理』探求…
其処には『苦痛と労苦と追放』が『知恵』へと至るために
支払わなければならない『代償』があったのである…

2019.2.16[Sat]
『現代神智学(カバラ)』

掲載画像はフランスの詩人、小説家、評論家
『ポール・ヴァレリー』である…

彼の有名な言葉…

『風立ちぬ いざ生きめやも』…
(風が立った。生きることを試みなければならない…)

『ポール・ヴァレリー』が語りたかったのは
『人間(アントローポス)』が『歴史』を創るのではなく
『人間(アントローポス)』は『歴史』といふ『海』の中に
生かされているといふこと…

『人間(アントローポス)』は、いかよふにも
『歴史』を『創作』できるといふ
『常套語』を持っているが、此れに対する『逆説』である…

『歴史』は『人間(アントローポス)』とは
別に流れているものであり、生きているものであり
必ずしも美しいものではない…

『逆説』のかたちを取らなければ
語れない『真理』は数多、存在する…

説明しよふとすると、非常に面倒で
難解なことになる訳だ…

話は逸れて…
此れは『アンリ・ベルクソン』の『純粋持続』に於いて…
『心身平行論』は成り立たぬといふ結論…
此れにも、似たよふな思考が見受けられる…

『流れた時間(空間を持つもの)』と
『流れる時間(純粋持続)』は
全くもって違ふのである…

さて、此処で本題に入ろう…

『ジョルダーノ・ブルーノ』著の
『傲れる野獣の追放』に於いても
同じよふなことが言えるのだ…

『生成と消滅』に於ける『有為転変』は
『万物の変化』の一般的な概念…

『肯定的ロバ性』と『否定的ロバ性』の
『運命(ヘイマルメネー)』の治療といふ位置付け…

『運命(ヘイマルメネー)』自らは
『車輪』を動かす『操舵を行う部位』を
ダイレクトに回している…

『運命(ヘイマルメネー)』は
『ユピテル』よりも『下位』の存在であるが
『ユピテル』でさえ『侵入不可能な領域』にも
入ることができるからであり…

『ユピテル』は『運命(ヘイマルメネー)』に
『宇宙の全空間』を委ねているからである…

其処に於ける『静かな状態』と云ふ
意味深な『快楽』と『理性』が
『労苦と死のテーマ』について
議論を取り行っている訳だ…

『快楽』が多くの『労働』の後に
『労苦の終止符』を打つのが
あるべき姿と考えているのに対して…

『理性』は『労苦の終止符』を諦めるよふ
『快楽』に勧めている…

其れは
『静かな状態』は『運命(ヘイマルメネー)』と
自然の連続的な『回転運動』と条件や事情に
ぴったり当てはまらないからである…

『快楽』は物事が全てうまくいったので
静かに過ごしたいと考える…

『理性』は『労苦と恐怖』から逃れて
『生の悩み』の上を漂ふのだ…

然し乍ら、絶対に、そふはならないのである…
『有為転変』に於いて事柄は
決して『静止』することはないのだ…

あらゆる『回転する車輪』の頂に座する者は
『破滅』を前にしているということに
気づかないので日々を過ごしている…

其処にある『緊密な象徴的関係』は
アプリオリなことである…

『ジョルダーノ・ブルーノ』の関心は『変化の必然性』…

『転換』と『有為転変』は『変容の車輪』に於いて
『人間(アントローポス)』が頂に座り
『静止』を『否定』することを通じて初めて
『仮初め』に生きることが可能になり
『運命の髪』を獲得することができるようになる…

昨日も少し『生命の樹(セフィロトの樹)』について触れたが
『現代神智学(カバラ)』は、現代世界の
あらゆる『宗教』や『哲学』などに
大きな影響を及ぼしているものなのだ…

( 2018.11.12[Mon]『至高体験(Peak-experience)』・参照)

2019.2.15[Fri]
『有為転変』

『ジョルダーノ・ブルーノ』著
『傲れる野獣の追放』に於いて…

『ユピテル』による
『メルクリウス』の『九本の弦交換の隠喩』は
『希望の現れ』其のものである…

『否定的ロバ性の竪琴』の持つ『悪徳』の代わりに
『九名のミューズ』が『昇天』するのである…

『ジョルダーノ・ブルーノ』は此処で
決定的に『否定的ロバ性』の特質に触れている…

『否定的ロバ性の竪琴』の特質は
『不毛の静止』の『キーワード』…

此処で少し話は脱線する…
其れは『有為転変』のこと…

此処には、とある『画』が
意味を持って立ち現れる…

『運命(ヘイマルメネー)』と
『王国の脆性』のテーマとの関わりに於いての
三つの『ロバ』と『車輪』についての『画』が…

永遠の安定性の否定…
そして変化の恒常性である…

『人間(アントローポス)』の『運命(ヘイマルメネー)』と
『王国』の『運命(ヘイマルメネー)』は
『永遠の周期』に繋がっている…

『人間(アントローポス)』は
『霊(モナド)』
『心魂(幽体、原因体=コーザル体)』
『肉体(物質)』から生成されている…

『生命の樹(セフィロトの樹)』を
思い浮かべて終ふ…

( 2018.12.9[Sun]『三部の教え 其の七』・参照)

『ケテル(王冠)』
『コクマー(知恵)』
『ビナー(理解)』
『ケセド(慈悲)』
『ゲブラー(峻厳)』
『ティファレト(美)』
『ネツァク(勝利)』
『ホド(栄光)』
『イェソド(基礎)』
『マルクト(王国)』
『ダアト(知識)』

因みに『ダアト(知識)』は、構造的に
後ろに隠された『セフィラ』である…

2019.2.14[Thu]
『メルクリウスの竪琴』

『大学時代』の『作品』で
今現在、残っているのは
二、三点のみ…

かなり多くの作品を創ったはずだが
どれもこれも気に入らず
『卒業前』に、燃やして終ったからである…

更に過去を遡れば…

大学に『合格』するために
必死に学んだ『基礎デッサン』も
『入学』してみれば『ゼロ・リセット』…

自分自身にとっての
唯一無二の『表現』を見つけるためには
当然そふなる…

『表現』の『方向性』は
誰かが示してくれる訳ではない…

己自身で考え抜くことでしか
『気づき』は生まれないのだから…

先づ、手当たり次第…
お気に入りの『巨匠』の『物真似』からである…

『行動』に『反映』させることを
『第一歩』とするしかない…

『西洋』のものから『現代アート』まで…

そして『マテリアル』も『油彩』以外に
『フレスコ画』『テンペラ画』『混合技法』
『彫刻』『ステンドグラス』など
さまざまな『経験』を重ねたのだ…

然し乍ら
物事は其れ程、甘くはない…
当然『物』にならないのである…

『大学時代』は只々
其の『繰り返し』で終わったのだ…

『卒業』して数年間は
何ひとつ『作品』を生み出せずに
悶々とした時間を過ごしていた…

そんな時、何気なく始めたのが
『過去の記憶』を書き連ねた『ノート』であり
『起死回生』のきかっけとなったのは確かである…

( 2019.2.4[Mon]『ノート』・参照)

此の『ノート』を何冊も重ねていくうちに
『大学では、何ひとつ勉強していなかったのだ』と
気が付いたのである…

其の気持ちは今現在に於いても
日々、変化し続けているし
『途上』であることは云ふべくもない…

次回の『個展』の『主題(テーマ)』も
『ジョルダーノ・ブルーノ』の
何処に『着地』するべきか…

然し乍ら、そろそろ『制作』は
始めてゆかなければいけないのだ…

次なる『作品』は、此処、数ヶ月の間
『備忘録』に書き連ねてきたことを
『圧縮』しつつ『アウトプット』するだけのこと…

さて、此処でよふやく『本題』へ…

『ジョルダーノ・ブルーノ』の『認識の調和』とは
『知のあらゆる道具』の『釣り合い』が整い乍ら
『使用』を通じて『獲得』される…

各々の『追求』の範囲の『スペシャリティ』を超越して
『認識(グノーシス)』の複雑な宇宙の中で
自らの占める場所を定める唯一の可能性…

『数論』『幾何学』『音楽』『論理学』
『詩』『天文学』『自然学』『形而上学』『倫理学』…

『否定的ロバ性』の手においては
竪琴は『詐欺師の楽器』にしかなり得ない…

それ故に…
天の改革において『ユピテル』は
『メルクリウス』の九本の弦をもつ竪琴の場所を
偉大な母『ムネモシュネー』の
『九名の娘』と交換しようと望んだのである…

――――――――――――――――
『陸上自衛隊』
https://www.youtube.com/watch?v=0N26fofySZU

2019.2.13[Wed]
『竪琴を弾くロバ』

『ジョルダーノ・ブルーノ』の魅力は
どれだけ『探求』しても『真実』が
スルリと逃げて終ふ点である…

『議論(ロバ性)』は常に『先送り』されて
いかよふにも、はっきり語られることがない…

故に、わたしは『生涯』をかけて、じっくりと
此の『主題(テーマ)』に取り組むことができるのだ…

此れは、非常に有難いことである…

さて『ジョルダーノ・ブルーノ』の『博愛主義』は
一般的な『称賛』を超越して
特定の任務のために力を尽くす『称賛』となる…

『ジョルダーノ・ブルーノ』は『ルネッサンス』に於いて
流布していた主題を独自の方法論で熟慮し直している…

『ロバ』と『メルクリウス』の多くの像…
此の二つの象徴は『ファロス的性格』以外にも
『竪琴』といふ大きな関係を持っている…

『竪琴を弾くロバ』に於いて
素晴らしい調和を奏でる『技術』を保持しているのは
『否定的ロバ性』でないことは確かなことである…

其の『閉ざされた一面性』といふ条件からは
『竪琴』は良き音を奏でることはできない…

何故ならば『竪琴』は『多様性』を
実践に移すものであり
身をもって示すものだからである…

『肯定的ロバ性』に於いては
『竪琴』は、いかなる『困難』もなく
確かな『技術』で甘美な音を奏でることができる…

『ジョルダーノ・ブルーノ』著
『傲れる野獣の追放』に於いて
『ユピテル』が竪琴の九本の弦の場所に
九名の『知の女神』を置くのは
そふした背景があるからである…

因みに『メルクリウス』が持つ
二匹の『蛇』が巻きついた杖『カドゥケウス(商業や交通のシンボル)』は
『アスクレピオスの杖(医術のシンボル)』と混同され易いことがある…

以下…
『ジョルダーノ・ブルーノ』著
『傲れる野獣の追放』より一部抜粋…

(以下)

-------------------------------------

ユピテルは言いました。
『そして、私の望むことは、(もしも会議の他のメンバーが同意するならば)
彼(メルクリウス)のこの九本の弦をもつ竪琴の場所を、
偉大な母ムネモシュネーが彼女の九名の娘とともに継承することだ』。
ここですべての神々は同意のしるしとして頭を下げました。
そして、推奨された女神は娘たちとともに感謝したのです。
長女である『数論』は、考えられるすべての数以上に、
そして知性が足し算によって計算できる何億何兆という数以上に、
彼らに感謝すると言いました。
『幾何学』は、描かれ得るすべての形や連続的な大きさを
想像力で分解して見出されるすべてのアトムの数以上に、
感謝していると言いました。
『音楽』は、想像力が組み合わせることができる
すべての調和と和音の数以上に、感謝していると言いました。
『論理学』は、文法学者たちが犯すすべての矛盾や修辞学者たちが犯す
すべての偽りの説得や弁証学者たちが犯すすべての誤った説明の数以上に、
感謝していると言いました。
『詩』は、歌い手が物語を語る際に用いた、
あるいはこれから用いるであろうすべての脚の数以上に、
感謝していると言いました。
『天文学』は、エーテルの領域である無窮の空間が
内包する星の数以上に(もしも『以上』と言うことが可能ならば)、
感謝していると言いました。
『自然学』は、自然のふところの原理と要素の数と
同じほどの感謝を捧げました。
『形而上学』は、諸事物の中に存在する現実的であると同時に
表象された概念に則って、自然の結果に関わる目的と
作用の理念と形質の数以上に、感謝していると言いました。
『倫理学』は、宇宙のこの世界や他の諸世界において
存在する習俗や慣習や法や正義や犯罪の数と同じほど、
感謝していると言いました。

(中略)

メルクリウスは言いました。
『それでは、私の竪琴にどういう命令を下すのですか』。
それに対してモモは次のように答えました。
『あなたが船に乗ったり宿に泊ったりするときの
暇つぶしのために持っていなさい。
そして、もしもあなたがそれを贈り物としてふさわしい人に与え、
しかもあまり遠くまで探しに行くことを望まないならば、
ナポリのオルモ広場やヴェネツィアのサン・マルコ広場に行き、
夕闇の訪れるのを待ちなさい。
というのも、これら二つの場所では、舞台に上がる多くの人たちが現れるので、
竪琴にもっともふさわしい人に出会える可能性があるからです』。
メルクリウスは尋ねました。
『なぜ、他の種類ではなく、この種類の最良の人を探さなければならないのでしょう』。
モモは答えました。『今の時代には、ちょうどレベックが
盲目の乞食たちの楽器になったように、
竪琴は主として詐欺師たちの楽器となり、聴衆の耳目を集めたり、
丸薬や水薬の宣伝に使われているからです』。

2019.2.12[Tue]
『二つのロバ性 〜 運命の髪』

昨日、リンクした動画『フラクタル(fractale)』は
畢竟『ミクロ・コスモス』と
『マクロ・コスモス』なのである…

『マニ教』には、其れらの思想が色濃く
現れているのだ…

( 2019.1.9[Wed]『グノーシス主義 其の八』・参照)

因みに『マニ教』の宇宙観の『史料』が
ほぼ完全な状態で『発見』されたのは
2010年『日本』に於いてであり
世界で初めてのことだったのだ…

掲載画像は、其の『宇宙図』である…

さて、本題に入る…

『ジョルダーノ・ブルーノ』著
『傲れる野獣の追放』に於いて…

『運命(ヘイマルメネー)』は、社会や身のまわりに起こる
事柄を決定する『人間(アントローポス)』の能力を認めている…

此れは『人間(アントローポス)』が
『霊(モナド)』を保持しているからである…

『自然』は、此の世の全ての『人間(アントローポス)』に
『運命(ヘイマルメネー)』の可能性を提供している…

そして『運命(ヘイマルメネー)』は
それを獲得し、保持しよふとする『人間(アントローポス)』に
厳しい『仕事(試練)』を課すのである…

『ジョルダーノ・ブルーノ』の『人間性』は
『ロバ性』に於いて『特定の使命』のために
激しく働くことによって『称賛』に至ると考えていたのである…

二つの『ロバ性』の対立である…

不毛な『否定的ロバ性』
力動的な多次元性を持つ『肯定的ロバ性』

『肯定的ロバ性』に於いてのみ
『運命の髪』をつかむ可能性が容認されるのだ…

『ユピテル』によって宣言された『労苦』は
『神的な人間たち』に『変容』するのである…

( 2019.1.19[Sat]『ヘルメス文書(ポイマンドレース:著/全文)』・参照)

此処で、一気に話を逸らして終ふが『君主論』の著者
フィレンツェ共和国の外交官『ニッコロ・マキャヴェッリ』もまた
同様に『ロバ性』について着目している…

( 2018.10.4[Thu]『イタリアの歴史の特異性』・参照)

『ニッコロ・マキャヴェッリ』は
此の世界の全ての領域に於いて
『善よりも悪が多いこと』を『ロバ性』の姿の元に
発見し、苦しんだことを語っている…

何故『ニッコロ・マキャヴェッリ』が
『政治』から『宗教』や『道徳』を切り離して考えたのか…
此れが、彼にとっての『戦術』だったのである…

『ジョルダーノ・ブルーノ』著の
『傲れる野獣の追放』に於いて
『ユピテル』が『悪徳の諸星座(神々)』を『追放』した後に
『美徳の諸星座(神々)』を
配置してゆく様と比較すると、非常に面白い…

さて、此処でまた話を脱線させて終うのだが…

『厳しい仕事』とは、『グノーシス主義』的に
言い換えれば『本来的自己』を見い出す作業に他ならない…

『神の王国(第十天)=プレーローマ』に至るための唯一の方法は
可視的な『第八天(恒星天)=楽園』より更にひとつ上の層の
『第九天(エンネアス)』に存在する『菱形構造』に
着眼する必要が出てくるのである…

その『菱形構造』とは…
『グノーシスの認識』と『グノーシスの理解』が重なる『本性』と
そして、二つの『ソフィアの摂理』によって構成される『生命』である…

然し乍ら、『グノーシス主義』にも弱点がある…

『インド哲学』に於いては『人間(アントローポス)』は
『神の王国(第十天)=プレーローマ』と『合一』しても
絶対に『解脱』は起こらないからである…

さて『グノーシス主義』に話を戻そう…
『マリアの福音書』へ…と…

( 2018.11.26[Mon]『マリアの福音書』・参照)

『マリアの福音書』の、以下の記述に注目したい…
--------------------------------
『お前が行こうとしているのはどこへなのか。
お前は悪の内に支配されてきた。
お前は支配されてきた。裁くな』
と言って。
--------------------------------

『神智学』に於いて、此の意味するところは
判りやすく云ふなれば『非暴力行動論』のことである…

2010年から2011年にかけて
『チュニジア』で起こった『ジャスミン革命』は『記憶』に新しい…

『闘い方』を知っていると
『権力』を崩すことは簡単だといふことだ…

『ジョルダーノ・ブルーノ』は
其の闘い方を知っていたのである…

以下…
『ジョルダーノ・ブルーノ』著
『傲れる野獣の追放』より一部抜粋…

(以下)

-------------------------------------

それゆえに、怠け者や悪党が君主や金持ちになったとしても、
それは私の罪ではなく、あなたたちの罪なのです。
あなたたちは、自分たちの光と栄誉を惜しんで、
この人間から悪意や怠惰を取り除かなかったし、
いまも取り除いていません。また、事後的に、
このような者が支配するのを防ぐために、
彼の悪辣な怠惰を浄化することもなかったのです。
君主になることが問題なのではなく、
悪党が君主になることが問題なのです。
それゆえに、君主の地位と悪辣さの二つがありますが、
悪いのは私が与える君主の地位ではなく、
あなたたちがそのままにしている悪辣さなのです。
君主の地位がすべての人たちに与えられることは、可能ではありません。
すべての人たちが銭に当たることは、可能ではありません。
しかし、すべての人たちは鑑を平等に引くことができます。
この可能性には、その中の一人だけが当たるという必然性が続きますが、
このことは不正でも悪でもありません。というのも、
一人以上が麓に当たることは不可能だからです。
しかし誤りはそれに続くこと、すなわちその人が卑しく、
悪党で、不徳であることに存しています。
この悪の原因は、君主であることや
能力を持つことを与える『運命』にではなく、
この人を有徳にしない、あるいはしなかった『徳』にあるのです。

(中略)

さらにまた、いかなるものも絶対的に悪ではありません。
なぜならば、マムシはマムシに対して死をもたらしたり
有毒であったりはしません。このことは、
竜やライオンや熊にもあてはまります。
しかし、あらゆるものは、何か別のものに対しては悪なのです。
たとえばあなたたち有徳な神々は、悪徳な者たちから見れば悪であり、
昼や光に属する者たちは夜や闇に属する者たちから見れば悪なのです。
そしてあなたたちは、あなたたちの間では善であり、
彼らは彼らの間では善なのです。

(中略)

それゆえに『勤勉』あるいは『労苦』の女神は、歩みなさい。
そして私は(とユピテルが言った)、
『困難』がおまえの前を走り、おまえから逃げるのを望む。
『不運』を退け『運命』の髪をつかみなさい。
望ましいと思ったときには『運命』の車輪の回転を早めなさい。
そして、そうするのが良いと思ったときには、
この車輪に釘を打ち、その回転を止めなさい。

2019.2.11[Mon]
『植物の超神秘的感覚的世界』

掲載画像は『サンドロ・ボッティチェッリ』作
『プリマヴェーラ(春)』に登場している
ローマ神話の『花と春と豊穣』を司る女神『フローラ』…

本日は息抜きに『植物』を
話題に取り上げてみたいと想ふ…

『ジョルダーノ・ブルーノ』の説は
主に『ヘルメス・トリスメギストス』による
『宇宙観』を元に形成された…

故に『水』『気』『火』『土』の『四元素』に
第5の元素『エーテル質』を加え
『宇宙』は、其れで満たされていると説いたのだ…

本日は、其処から敢えて離れて
『自然観察』によって
其れを紐解いてみることにする…

故に、わたしの『精神状態』は
限りなく『デフォルト・モード・ネットワーク』に
近い状態であるといふことだ…

『植物』は、他の『生命体』と大きく異なっており
『意識』が『深く眠り込んでいる(昏睡している)』点が挙げられる…

然し乍ら、其の『意識下』に於いて『植物』は
電磁スペクトルを超えた『振動』や『フェロモン』により
非常に優れた『言葉』を持って『コミュニティ』を育み
『菌類』や『野生動物』との関係性をも鑑みながら
『発芽』や『開花』の時期を、皆で『相談』している…

熾烈な『縄張り争い』も当然してはいるのだが
一方では、大きな其れも、小さな其れも仲間全員が
『葉一枚ごとに』同じ量の『光合成』が可能なよふに『忖度』したり…

また、地中に於いて『根』を繋ぎ合うことにより
『養分の交換』をするなど、独自の『社会福祉システム』を持つ…

また『樹木』などは、種によって異なるのだが
『冬の嵐』によっての『倒木』を避けるために
『風の当たる面積』を減らす必要があることを知っている…
『秋』になると『葉』から『幹』に養分を移動し
『紅葉』して『葉』を落とし『冬眠』する…
『自然災害』にも耐える『作法』を持っているのだ…

また『春』になれば『芽の皮』は
『半透明』であることから
『光』の認識と『時間感覚』の力を発揮する…

また『森林』に於いては『樹木』は
謎めいた『蒸散』や『凝集力』によって
『水輸送』を行なってもいる…

ほんの一例に過ぎないが…
此のよふな、一連の『見晴らし』や『関係』があり
其れが『地球や宇宙』に対して、開かれているのである…

少し話は逸れて終ふが…

『心霊界』と『星辰界』で『本来的自己』の眼を持って
『エーテル体』『アストラル体』の世界を視る術を
獲得したと主張している『人間(アントローポス)』…

『グノーシス主義』に於ける『種子』とは
畢竟『霊(モナド)』であり
『人間(アントローポス)』の保持する『霊(モナド)』は
『プレーローマ』の至高神『プロパトール』
または其の下位世界『第八の恒星天(オグドアス)』に位置している
『アカモート』が『造物主デミウルゴス』に
そっと潜り込ませたものである…
故に『アダム』は楽園で立つことが出来たのだ…

( 2018.12.28[Fri]『三部の教え 其の二十六』・参照)

然し乍ら『人知』では図り知れないほどに
奥深く優れている『植物』の世界は
全く持って『超神秘的感覚的世界』なのである…

残念乍ら『グノーシス主義』の欠点は
此の『霊(モナド)』が『人間(アントローポス)』のみ
保持していると説いた点…
故に『太陽系第三レベルの教説』と云われるのである…

つまり『人間(アントローポス)』以外の
他の『生命体』は『霊(モナド)』を保持していないが故
『救済』の対象とはならないと説いたことなのだ…

さて『植物』に於ける『種子』は
実際に『月の位置』『惑星たちの位置』『太陽などの関係』によって
強く影響を受けて『生育』している…

植物にも『魂』が存在しているという『直観』は
『ゲーテによる原植物』の概念が其れを示しているし…

『ルドルフ・シュタイナーの人智学』もまた
『科学者』たちに充分な『瞑想法』を投げかけているのである…

『植物』に於ける『宇宙』は
まさに『フラクタル(fractale)』のよふな世界である…

『如来の秘密』を想い浮かべて終ふ…
-----------------------------------------
『フラクタル(fractale)』
https://www.youtube.com/watch?v=pCpLWbHVNhk

2019.2.10[Sun]
『大河のよふに緩やかに生きる』

掲載画像は『新薬師寺』の
『伐折羅大将像(バサラ)』…
『薬師如来』の『守護』を任務とする…

さて、本題に入る…

何故ゆえに昨日の『備忘録』が
『児童憲章』であったのか…

取り立てて
何かの『意味』がある訳ではない…

然し乍ら、此れも『現代神智学(カバラ)』から
派生したものである…

『現代神智学(カバラ)』は構造的に
『稲妻』のよふな流れとなっているため…

『現代神智学(カバラ)』を
『認識(グノーシス)』するためには
『雷』に打たれる必要がある…

己の精神の中に
『避雷針』を立てる必要がある訳だ…

( 2018.11.29[Thu]『ジョルダーノ・ブルーノの形而上学』・参照)

此の『現代神智学(カバラ)』は
現代世界に於いて、非常に重要な『思想』であるのだが…

『現代神智学(カバラ)』を
『真』に受け過ぎるのも、非常に困ったことになるのである…

つまり、どのよふな『逆境』にあっても
『暖簾(のれん)に腕押し』のよふな『精神』が
必要不可欠といふことだ…
己以外に『敵』など
誰一人として存在していないからである…

若干、話は逸れるが…
他者との間の関係性に於いては『最強の戦法』である
『三十六計逃ぐるに如かず(兵法三十六計)』に近いかもしれない…
(簡単に言えば、闘わずして勝つ戦法である…)

『弱い犬ほど良く吠える』ものなのだ…
其れを相手にしている『暇』など
わたしには一切、無いのである…

( 2018.12.16[Sun]『三部の教え 其の十四』・参照)

世の中には膨大な『情報』が流れているが
其れに『踊らされる』ことなく
『話半分』に聴くことが非常に大切…

畢竟、肩の力を抜いて
『大河のよふに緩やかに生きる』と云ふことだ…

此れが『精神学用語』で云ふところの
『レジリエンス(復元力、回復力、弾力)』
『心のしなやかさ』になる訳だ…

『レジリエンス』を高めて生きることが
人生を『有意義』に生きる術なのだ…

『アレックス・ペントランド』の研究によると
『私語』『雑談』『たわいもない会話』が
『レジリエンス(復元力、回復力、弾力)』を
高めることに繋がるのである…

此れは、とある研究所に於いても
『ソシオメーター理論』による
研究結果によって解き明かされている…

『人間(アントローポス)』は
何故『自尊感情』を求めるのかという問いに
『ソシオメーター理論』から答えるとすれば
人は『自尊感情』其のものではなく
『所属』を求めているのだということ…

また、話は逸れて『日記』や『備忘録』を
書き連ねることは重要な『認知療法』…

自分の行動や考えを『客観視』すること
『自己洞察』を深める有益な方法なのである…

わたしは己の『感受性』の中で生きているので
他者の、どふでもよい『理屈』には『無関心』を貫いているのだ…

『人間(アントローポス)』は
本心を隠して『自衛』したいといふ心理が働く場合
『高圧的な態度』を取るケースが少なくない…

根拠の無い『自信満々な態度』
『主導権』を握っていたいという『心理』は…

全て『劣等感』の現れなのである…
『無私を得る道』は非常に険しいのだ…

( 2018.9.4[Tue]『科学認識論』・参照)
( 2018.10.20[Sat]『フロイトとユングの(グノーシス的)無意識心理学』・参照)
( 2018.11.12[Mon]『至高体験(Peak-experience)』・参照)

『平成』も残り僅か…
誰をあはれと思ふらむ…
(いったい誰のことを一番、不憫(ふびん)に思っているでしょうか…)

此処でまた話は脱線して終ふが
エイレナイオスの『異端反駁』の報告に於ける
『ヴァレンティノス派プトレマイオスの教説』では…

『グノーシス主義』は
『右の者たち』は『正義』であり
積極的な意味で用いられるのに対して…

『左の者たち』は『邪悪』であり
常に否定的な意味で用いられていると説いている…

『ナグ・ハマディ文書』の『三部の教え』では
『左の者たち』=『物質的種族が負の存在』として
『右の者たち』=『心魂的種族』と対照されている…

因みに、断っておくが
わたしは『右』でも『左』でもない…
常に『ニュートラル』…

つまり『上の者たち(プレーローマ)』と
繋がっているのである…

( 2018.11.1[Thu]『計画』・参照)

――――――――――――――――――

『La ragazza col fucile』

Sta contorcendosi in buio infinito
Sta contorcendosi in la sofferenza
Sta contorcendosi in pioggia interrotta
Sta contorcendosi in la tristezza

Sta contorcendosi in buio infinito
Sta contorcendosi in la sofferenza
Sta contorcendosi in pioggia infinita
Sta contorcendosi in la tristezza

Poiché l'angelo innocente inoltre
Che nasco certamente cade a la terra

Sta contorcendosi in buio infinito
Sta contorcendosi in la sofferenza
Sta contorcendosi in pioggia interrotta
Sta contorcendosi in la tristezza

Poiché l'angelo innocente inoltre
Che caduta tingo rossa l'ala bianca
Una pallottola con mille parole di forza
Che fate il destino seguira

Volontà della acciaio
Occasionalmente violenza violenta
La fiamma della vita

La ragazza col fucile sta correndo nella pioggia triste
Ah… Anche se morira domani il cielo può darsi non cambierà

La ragazza col fucile sta correndo nella pioggia triste
Ah… Anche se morira domani il cielo può darsi non cambierà
La ragazza col fucile sta correndo nella pioggia triste
Ah… Anche se morira domani il cielo può darsi non cambierà


果てしない闇の中でもがいている
その苦しみの中でもがいている
絶え間ない雨の中でもがいている
その悲しみの中でもがいている

終端のない闇の中でもがいている
その痛みの中でもがいている
終焉のない雨の中でもがいている
その哀しみの中でもがいている

無垢な天使も生まれた以上
確実に地に堕ちる

無限の闇の中でもがいている
その苦痛の中でもがいている
無限の雨の中でもがいている
その悲哀の中でもがいている

無垢な天使も堕ちた以上
その白い翼を紅く染める

千の言葉より一発の銃弾
運命を従わせるのは力
鋼鉄の意志
時に激しい暴力
生命の焔

銃を持った少女は
哀しみの雨の中を駈けてゆく
鳴呼、彼女が明日、天に召されるとしても
その空は変わらないだろう

銃を持った少女は
哀しみの雨の中を駆けてゆく
鳴呼、彼女が明日、天に召されるとしても
その空は変わらないだろう

銃を持った少女は
哀しみの雨の中を駈けてゆく
鳴呼、彼女が明日、天に召されるとしても
その空は変わらないだろう

――――――――――――――――――――――――――――――――
『日本国自衛隊』
https://www.youtube.com/watch?v=PsuDawPOb1U

2019.2.9[Sat]
『児童憲章』

われらは、日本国憲法の精神にしたがい、
児童に対する正しい観念を確立し、
すべての児童の幸福をはかるために、
この憲章を定める。

児童は、人として尊ばれる。

児童は、社会の一員として重んぜられる。

児童は、よい環境のなかで育てられる。

一、すべての児童は、心身ともに、
健やかにうまれ、育てられ、その生活を保障される。

二、すべての児童は、家庭で、
正しい愛情と知識と技術をもって育てられ、
家庭に恵まれない児童には、
これにかわる環境が与えられる。

三、すべての児童は、
適当な栄養と住居と被服が与えられ、
また、疾病と災害からまもられる。

四、すべての児童は、
個性と能力に応じて教育され、
社会の一員としての責任を
自主的に果すように、みちびかれる。

五、すべての児童は、自然を愛し、
科学と芸術を尊ぶように、みちびかれ、
また、道徳的心情がつちかわれる。

六、すべての児童は、就学のみちを確保され、
また、十分に整つた教育の施設を用意される。

七、すべての児童は、
職業指導を受ける機会が与えられる。

八、すべての児童は、
その労働において、
心身の発育が阻害されず、
教育を受ける機会が失われず、
また児童としての生活が
さまたげられないように、
十分に保護される。

九、すべての児童は、
よい遊び場と文化財を用意され、
わるい環境からまもられる。

十、すべての児童は、虐待、酷使、
放任その他不当な取扱からまもられる。
あやまちをおかした児童は、
適切に保護指導される。

十一、すべての児童は、
身体が不自由な場合、
または精神の機能が不十分な場合に、
適切な治療と教育と保護が与えられる。

十二、すべての児童は、
愛とまことによつて結ばれ、
よい国民として人類の平和と文化に
貢献するように、みちびかれる。

2019.2.8[Fri]
『ジョルダーノ・ブルーノの純粋気体の滴り』

本日は、9年ほど前に書き連ねた
わたしの『詩歌』を取り上げる…

此れはわたしが幼き頃に感じた『実体験』
つまり、わたしの『記憶』を想起したものに…
『ジョルダーノ・ブルーノ』の
『無限宇宙』を重ね合わせたものだ…

『アンリ・ベルクソン』で言ふところの
『生命の飛躍(エラン・ヴィタール)』とも深く関連する…

『生命体』は『生命をもたない物質』には無い
『生き生き』としたあり方にあり…
其の『エネルギー』や『原理』のことを
『生命』と呼ぶことがある…

『人間(アントローポス)』は『生物』であると同時に
『実存』でもあるということ
かけがえのない『個』として
『実存的に屹立』している…

いわば『ゾーエー(霊的な命)』と
『ビオス(物質的な命)』が
分かち難いものとして『交差』する
その交点が『人間の生命』であるのだ…

以下は、其の『詩歌』である…

(以下)
--------------------------------------

『ジョルダーノ・ブルーノの純粋気体の滴り』
ルーペのレンズを突き抜けた白銀に輝く太陽光の粒子は、
まるで漏斗に注がれたエーテルのごとく
抵抗することを許されず屈折を余儀なくされ、
目に見えぬ円錐形となってある地点で収束し、
獲物を狙う豹の眼のような眩く
美しい灼熱の焦点として立ち現れる。
ルーペを持った手は、
意識的に辛うじて安定を保つ努力をしつつも、
呼吸や鼓動、更には筋肉の動きのために
時折揺れ動くことまでは制御できず、
その度に焦点は正円と楕円の間を
微細に往復し続けることを強いられる。
その変容を見つめ続ける
我が虹彩によって囲まれた孔はたちまちのうちに収縮し、
屈折を受けた虚像は神聖にして
不可侵な闇夜とは無関係の扉を開き始め、
まとわりつく周囲の空気の密度はそれとは対照的に、
眠るような幻影の中心を静かな流れに沿って
急速に色彩と輝きを失い、失速し、
胎動のような微かなノイズを受けて熱を帯びゆく。
遠ざかる気息。
北緯36度、東経103度の月面クレーターの明と暗。
得体の知れぬ磔台に釘付けされた黒き紙片。
獰猛な焦点の輝く虚空に身を委ね、
叫び声も上げず、瞬く間に爛れ、
灼き尽くされ、ただただ静寂の中、
鼻腔をつく煤けた紫色の煙を吐き出し、
ミゼレーレの微笑と共に灰と化す。
ふと我に返り、深淵の青黒き空の壁のさなかに残る
幾多の突き当りの暗闇を見やると、
眼球の裏側は乗算された透明な深緑色の薄膜で支配し尽くされ、
全ての存在や輪郭もあやふやな、
幻想とも夢想ともつかぬ息を呑むような何かが漂い、やがて立ち消える。
ふたつの焦点の軋んだ沈黙。光軸上に下ろした垂線のサーベル。
青ざめた無垢な夢見る純粋気体。水、気、火、土。
文脈から剥がれ落ちた呪われた無限宇宙に舞い降りるオーロラ。
ジョルダーノ・ブルーノ...。

2019.2.7[Thu]
『純粋持続』

『アンリ・ベルクソン』著の
『物質と記憶』を『熟読玩味』していると…
何の根拠もないといふのに『記憶』に相当するものが
『仏教』に於ける『風輪』のよふな大きさで
立ち現れる感覚を覚えて終った…

『風輪』は『人間(アントローポス)』の住まふ『金輪』
更に其の下の『水輪』の下にある世界である…

さて、本題に入る…
『アンリ・ベルクソン』の『純粋持続』について…
畢竟『心の中の時間の感覚』という概念について触れてみたい…

『アンリ・ベルクソン』の『哲学』を短く纏めるので
『乱筆乱文』となること必至である…

『純粋持続』は、線状に時系列で量的に測れるものとしてではなく
人間の内面にある直観的なものとして捉える『時間』のことである…

『人間(アントローポス)』は『仮初め』に別々の経験をし乍ら
『精神の中』ではそれらが繋がっており
一部分が全体を映し出すような形で存在している…

『人間(アントローポス)』の意識下に於いて
時の流れは明確な『輪郭』は無い…

融合し合い、浸透し合うような
モヤモヤしたものが常に変化している…

其れは『空間』を占めないものであり
『分割不可能』であり、共に刻々と変化し
過ぎ去っては二度と帰らぬもの…
更に何処にも切れ目がなく、数の増もない…

つまり、此処に『流れる時間』と『流れた時間』の
ふたつの『概念』が付き纏ふといふことである…

『流れた時間』とは『ドローイング』のよふな
時間の変化が投げる『痕跡』であり
『残骸』のよふであり、いつでも拾い上げることが出来
更には其れを『切断』することも可能である…

此のよふな観点から『流れた時間』は『空間』であり
『流れる時間』のみが『真の時間』つまり『持続』のことである…

『精神(記憶)』と『脳髄(物質)』を
『持続』の『緊張』と『弛緩』の両極に位置するものとするならば
『精神』と『脳髄』の働きは、全く並行はしていない…

此れは、いかなる『科学』が進歩しても
根本のところは揺るがない『概念』である…

此の『概念』には『意識』とか
『無意識』の諸問題も付き纏ふ…

其れらは、ただその時に『有用』か
『無用』かということの意味…

『仮初め』の『生』とは
すなわち『過去の体験』の『全意識』のうちから
現在の『行動』に役立つもののみ
選り分けて思い出されているといふことに他ならない…

言い換えれば『過去』が生き直されているということであり
『全歴史』を背負っているのである…

脱線して、此処から更に『本能』といふ問題も派生して出てくる訳だが
『アンリ・ベルクソン』によるならば、地球生命体に於いて
最も『本能的』な生物は、昆虫の『蜂』であることが
解き明かされている…

其の記述のある『頁』を探していたのだが
残念乍ら見つからず…

話は逸れて…

『仏教』に於ける『弥勒』は
56億7千万年の『修行』を経て
ようやく『解脱』し『菩薩』から『如来』になる…
此れも『現代神智学(カバラ)』である…

( 2019.1.9[Wed]『グノーシス主義 其の八』・参照)

さて本日のわたしは、更に脱線する…

此処、数日の『通勤時間帯』…

『三島由紀夫』の
『学生との対話』や
『最後の言葉』を聴いている…

『三島由紀夫』とは
一体、何者であったのか…

そして…
『東大全共闘』の議論は
『実存主義』と『マルクス主義』に
依拠しているよふであるが…

とても『頑な』で『観念的』で
『具体性』に乏しい…

どふにも『東大全共闘』の発言を
追いかけるのに『苦労』する…

わたしには、一切、答えが出せない…

10年程前に…
『美輪明宏』と出逢った時のことを
わたしは想い出す…
―――――――――――――――
『三島由紀夫 vs 東大全共闘』
https://www.youtube.com/watch?v=5wLaND09VF8

2019.2.6[Wed]
『運命(ヘイマルメネー)と記憶術との関係性』

わたしの『精神』は自分自身の『探求』のみに『関心』を持っており
其れ以外の『未熟で軽薄な世界』については『無関心』の立場である…

毎夜、此のよふにして『備忘録』を書き連ねることに
わたしの『全勢力』は注ぎ込まれる…

それは『生』と『死』の問題…
『人間(アントローポス)』が
日々『死』に向かって歩んでいることを
いかにせんとや…といふことである…

『ジョルダーノ・ブルーノ』に
『集中』することは何物にも勝るもの…
畢竟『仮初め』の精神である…

本日の『備忘録』の最後には
『動画』もリンクすることにする…

さて、昨日の続き…
『運命(ヘイマルメネー)』について…

『運命(ヘイマルメネー)』の迷宮の内部で
『ロバ性』は二つの意味を提示している…

『否定的なロバたち』の進歩も成果も得られない一面性には
『肯定的なロバたち』を解釈する手法および学術体系的な
複数の『宇宙の存在』を仮定する『仮説』が対立している…

『肯定的なロバたち』においてのみ
『運命の髪』をつかむ可能性が容認される…

『ユピテル』によって宣言された労苦の弁明は
『神的な人間たち』の弁明に変容する…

此のよふなことに思考を巡らせてみると
再び『アンリ・ベルクソン』の
『二元論』に立ち還らざるを得ない…

彼の『哲学』にも『ジョルダーノ・ブルーノ』と同様に
『記憶術』に関する『真理』があるからである…

言い換えれば『直観』から『分析』に至る『道』は存在するが
『分析』から『直観』に至る『道』は存在しないといふことである…

『アンリ・ベルクソン』著
『物質と記憶』より一部、抜粋…

(以下)

------------------------------------------------

しかし記憶力の問題が私たちの眼から見て、
いかに特権的な問題であるかをはっきりと示すためには、
この同じ思想をさらに第三の形であらわさねばならない。
純粋知覚にかんする私たちの分析から出てくるのは、
ある意味で異なった二つの結論であり、
その一方は心理学を心理〜生理学の方向へ超え、
他方は形而上学の方へ超えるもので、
どちらも直接の検証を許すものではなかった。
第一の結論は知覚における脳の役割にかんするものであった。
脳は行動の道具であって、表象の道具ではないということだ。
私たちはこの主張を、事実によって直接確証することはのぞめなかった。
というのも、純粋知覚は、定義により、
私たちの器官と神経中枢を働かせて、
現在の対象に向かうものであり、
したがってあたかも私たちの知覚が脳の状態から発したのち、
知覚とはまったく異なる対象に自己を投射するかのように、
いつも万事がそうなるからである。
換言すると、外的知覚の場合、私たちが論ばくする主張も、
その代わりとしてもってくる主張も、まさに同じ帰結に導くため、
どちらかがよりわかりやすいと言うことはできても、
経験を論拠にすることはできないのである。
これに反して、記憶力の経験的研究は、両者に判決を下すことができるし、
また下すべきである。純粋記憶は、
じっさい仮説によって、不在の対象の表象である。
もし脳の特定の活動の中に、知覚がその必要かつ十分な原因をもっているなら、
脳のこの同じ活動は、対象が不在なときにも、
多少とも完全に反復して、十分に知覚を再生できるであろうし、
そこで記憶は脳によって、完全に 説明されうるということになろう。
これに反して、脳の機構は、記憶をある仕方で条件づけるけれども、
その存続を保証するにはまったく不十分であり、
思い出された知覚において、私たちの表象よりはむしろ
行動にかかわっているということがわかるならば、
そこから帰結されうることは、
それが知覚の場合と類似した役割を演じていたこと、
その機能はたんに現在の対象にたいして、
私たちの有効な行動を保証することだけであったということであろう。
私たちの第一の結論は、こうして検証されたことがわかるだろう。
さて、まだ第二の結論が残るわけだが、これはむしろ形而上学に属するものだ。
すなわち私たちは真に自分の外部へ、純粋知覚の中に置かれるのであり、
そのさい直接的な直観において、対象の実在にふれている。
対象の実在が直観的に知覚されようと、合理的に構築されようと、
実際の結果はまったく同じであろうから、ここでも経験的検証は不可能であった。
しかしここでも、記憶の研究は二つの仮説に判定を下すことができるだろう。
あとの仮説においては、じっさい、
『知覚と記憶はいずれも自足した表象の現象なのだから、
両者の間には強度の差、より一般的には程度の差しかあるはずがない。
これに反して、記憶と知覚との間にはたんなる程度の差ではなく、
本性の相違があるということを私たちが見いだすならば、
記憶にはどんな 程度においても存在しないあるもの、
すなわち直観的に把握される実在性を知覚に内在させる仮説の方に、
察するところ歩があることとなろう。
このようなわけで記憶力の問題は、まことに特権的』な問題である。
それは検証不可能とも見える二つの主張の心理学的検証へ導くし、
しかもその第二の主張はむしろ形而上学に属するもので、
見たところ心理学を無限に超えているかのようだからである。
私たちが歩むべき道は、いまや完全に示された。
私たちはまずはじめに、常態あるいは病態心理学から借りた
種々な記録に眼を通すことにするが、ひとはそれらから記憶力の物理的説明を、
引き出してよいものと信じているかもしれない。
この吟味はどうしても詳細なものとならざるをえないだろう。
さもないと無益なものに堕する危険があるからだ。
私たちは諸事実の輪郭にできるだけ接近しながら、
記憶力の働きにおいて身体の役割が
どこからはじまりどこで終わるかを探らねばならぬ。
そしてこの研究において、私たちの仮説の確証を見いだしたあかつきには、
ためらわず先へ進んで精神の基本的な働きをそれ自体において考察し、
こうして、精神と物質の関係について素描された理論を完成することにしよう。

------------------------------------------------
坂本龍一
『3-3 Light / LIFE』
https://www.youtube.com/watch?v=RqlItqLTseQ

2019.2.5[Tue]
『運命(ヘイマルメネー)そして協働の意識』

『ジョルダーノ・ブルーノ』著
『傲れる野獣の追放』に於いて…

『運命(ヘイマルメネー)』の意味を
より深く『認識(グノーシス)』することが可能である…

其れは『運命の主役』である
『人間(アントローポス)』の姿である…

『運命(ヘイマルメネー)』には
根本的な『役割』が課されている…

『理性』『真理』『知恵』『正義』
『他の神々』といふ根本的な『役割』である…

『運命(ヘイマルメネー)』は
『ユピテル』よりも『下位』の存在であるが
『ユピテル』でさえ『侵入不可能な領域』にも
入ることができるのである…

それ故に、天の『コンクラーヴェ』に於いて
神々の父は『運命(ヘイマルメネー)』に
『宇宙の全空間』を委ねている…

つまり『天の改革』は
神々の『協働の意識』に於いて
『神々』がお互いを『信頼』し合うことから
成されたといふことである…

此処に『ジョルダーノ・ブルーノ』の『真理』がある…

『天の改革』に於いて『協働』を嫌ふ者は
『追放』される『運命(ヘイマルメネー)』となるのである…
アプリオリなことである…

『運命(ヘイマルメネー)』については
以前『ナルキッソス少年の悲劇性(転落)』に於いて触れてきた…

(2018.11.16[Fri]『自己と星辰界との敵対』・参照)

それから以下は『傲れる野獣の追放』より
一部、抜粋である…
(以下)
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しかし、(モモには好きなことを言わせておくとして)女神(運命)よ、
おまえの理屈は私にはたいそう有効なものに思われる。
それゆえに、もしもおまえの弁明に対してそれ以上に
強力な申し立てが示されないならば、
私はおまえには特定の場所を与えることによって、
おまえをそこに拘束したり追放したりしないことにしよう。
おまえが示した天全体におけるおまえの権力を、おまえに与える、
というよりもむしろ容認することにしよう。
というのも、おまえは自分自身でたいへんな権威を持っており、
他の神々のみならずユピテルにも閉ざされた場所に入ることができるからだ。
私は、われわれみながおまえに多くを負っていることについて、
これ以上話すつもりはない。おまえはすべての扉を開き、
すべての道を歩み、すべての部屋を使い、
すべての他人のものをおまえのものにするがよい。
他人の椅子はおまえのものになるがよい。
それゆえにすべてのものは、変容の定めのもとにあるかぎり、
みなおまえの手によってかき混ぜられるあの壺を通過するのだ。

(中略)

私には、司教冠や礼服や王冠や技芸や才能が見えません。
長所や短所は見えません。
なぜならば、これらの存在は異なった者たちに
自然によって配分されたのではなく、
疑いなく、状況や機会や偶然によって
特定の者のもとに集まったり、そこから去ったりするのです
私はすべての者たちを壺に入れ、
その大きな胴体の中でかき混ぜ、ごちゃごちゃにします。
そして、鉱が引かれ、よい銭を引いた者は幸運で、
悪い金を引いた者はついていないのです。
このようにして運命の壺の中では、
大きなものは小さなものと変わりません。
それどころか、そこではすべては同様に大きく、同様に小さいのです。
というのも、彼らの中の相違は、彼らが壺に入る前と
壺から出た後に生じるので、私以外の他の原因によるものだからです。
壺の中にある間は、すべては同じ手から同じ容器の中で
同じしかたでかきまわされるのです。
それゆえに私は、全世界を同様に扱い、すべてを一つの塊とみなします。
その中のいかなる部分も他の部分よりも価値において
勝ったり劣ったりしません。
そうでなければ、壺は恥で満たされることになるでしょう。
私は、すべての者たちを変容と運動の同じ壺に投げ入れ、
すべての者たちを公平に扱い、公平に見つめ、えこひいきはしません。
そして、あなたたちの考えとは反対に、
私はもっとも正しい者となるのです。
あなたたちのために、私の手が麓を引くときに、
しばしば一それが善であれ悪であれ、
幸運であれ不運であれ一善人よりも悪人を、
知者よりも患者を、正直者よりも嘘つきを選ぶことになるのです。
なぜ、このようなことが起きるのでしょうか。
『賢慮』がやってきて壺の中に二・三の名しか投げ入れません。
『知恵』がやってきて五・六しか投げ入れません。
『真理』 がやってきて、一つ、あるいはもしも可能なら
それ以下しか投げ入れません。
そのうえで、1億の名前が壺の中に投げ込まれているときに、
驚を引く手が、80万や90万ある種類のものではなく、
8か9つしかない種類のものから選ぶことを、
あなたたちは望んでいるのです。
あなたたちは、反対のことをするべきなのです。
『徳』よ、有徳な人が悪徳な人よりも多いようにしなさい。
『知恵』よ、知者の数が患者の数よりも多いようにしなさい。
『真理』よ、大多数の人たちに開放され、明白になりなさい。
そうすれば確実に、あなたたちの仲間たちは、
その反対の人たちよりも多く選ばれ報酬を受けることでしょう。
あなたたちは、すべての人たちが正しく、正直で、
賢明で、善良であるようにしなさい。
そうすれば確実に、私が嘘つきや悪人や狂人に
位や顕職を与えることはなくなるでしょう。

2019.2.4[Mon]
『ノート』

此の『ノート』は
わたしが20年以上前に
様々な『アイデア』や
昔の『記憶』を隙間なく
書き連ねたもの…

およそ300頁ほどは
あるであろふか…

此れ以外にも…

メモ帳ぐらいのサイズのもの
大きなサイズのものもあり
正確に数えてはいないが
10冊以上はあると想ふ…

内容はドローイングであったり
文字やコラージュであったり
兎にも角にも『支離滅裂』な内容である…

大学の頃、そして卒業してからの数年間は
『創作』は全くもって惨めであったのだが…

是等の『ノート』のお陰で
今現在のわたしの『表現』は
生まれていると言っても過言ではない…

昔から、脳裏に浮かんだものを
こまごまと『記録』しておくのが好きなのだ…

決して、手離すことの出来ない
大切なものである…

2019.2.3[Sun]
『ヘルメス主義やグノーシス主義』

『ジョルダーノ・ブルーノ』著
『傲れる野獣の追放』に於いて…

『ユピテル』は『ロバ性』に
『カバラ(神智学)』の価値を認めるが…

『サウリーノ』などの話し相手たちが
『ロバ性』の勝利に対して反対することから
『傲れる野獣の追放』に於いては
この解決は延期されたままになるのだ…

『サウリーノ』は云ふ…
『分かりました。これ以上、解決を延ばして
あなたをじらさないようにしましょう』…と…

此処で話は大きく脱線する…

紀元前597年…
ユダヤ人が『ネブカドネザル』に
計3回捕囚され『流刑』の後
アケメネス朝ペルシャの初代の王
『キュロス2世』によって解放され
故国に戻って『エルサレム』で
神殿を建てることを許される…

『バビロンの捕囚』である…

ちょうど此の頃『ゾロアスター教』と
『カルデア神学』が結びつき『秘教』が生まれる…
此の『秘教』が『ミトラ教』の原点である…

其の後『ミトラ教』は『東方三博士』を通して
『エッセネ派』へ繋がり『エルサレム』に逆輸入される…

そしてまた『アレキサンドロス大王の東方遠征』により
『エジプト神学の一大文化』が『エッセネ派』に流れ込む…

『ヘルメス主義』や『グノーシス主義』は
あまりに複雑な『混交文化』の中から生まれたのである…

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『ROMA』
https://www.youtube.com/watch?v=31wq89a9pHE

2019.2.2[Sat]
『ロバ性、狂気、無知』

『ジョルダーノ・ブルーノ』は
真剣さとユーモアの間に
ぶら下がった行脚の中で
世界に向けて『真理』を投げつける…

この思想には『ヘルメス主義』が根底にあり
単純な行程は存在せず
初めから、あらゆる事柄は複雑なのである…

常に『ロバ性』は先送りされ
これらの『ほのめかし』に鑑みて
『カバラ』に度々現出する
いくつかの手掛かりの使用が見受けられる…

此れが『ジョルダーノ・ブルーノ』の
根本的な『哲学』の有益性であろう…

問題になっているのは
『ジョルダーノ・ブルーノ』が頻繁に使用する
『ロバ性』『狂気』『無知』である…

『ジョルダーノ・ブルーノ』著
『傲れる野獣の追放』に於いては…

『ロバ性』に関して
以下のよふに述べている…

一部抜粋(以下)
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精神の力で、
あらゆる岩だらけのごつごつした山を登り、
乗り越え、通過しなさい。
自分自身に対して抵抗し、
克つだけではなく、おまえの困難の感覚と
労苦の感情がなくなるまで、
おまえの情熱を熱くしなさい。
このようにすれば、労苦は、
それ自体において労苦であることをやめるからだ。
ちょうど、いかなる重いものでも、
それ自体においては重くないように。
しかし、もしもおまえが
自分が労苦であることに気づかなくなるまで
自分に克つことがなければ、
おまえは労苦という名に
ふさわしいものではないだろう。
しかし、労苦よ、自分の労苦にではなく、
卓越した仕事に喜びを感じなさい。
有徳な企てと行為に関しないかぎり、
自らにおいて快楽ではなく、
堪えがたい労苦を見出すようにしなさい。
それゆえに、おまえが徳ならば、
低劣で軽薄で空虚な事柄に携わるのをやめなさい。
真理の崇高な極の真下に立ちたければ、
アペニン山脈を通り過ぎ、アルプスの山々を登り、
岩礁の多い大海を渡り、険しいリフェイの山々を乗り越え、
コーカサスの凍った荒地を横切り、
未踏の高地に侵入し、
あの幸福な輪の中に入りなさい。
そこには、つねに光があり、暗闇や寒さは訪れず、
いつも温暖で、夜明けや昼が永遠に存在するのだ。

(中略)

さあ、私、『労苦』は、歩み出て、
準備を整え、袖をまくりあげる。
あらゆる怠惰、あらゆる閑暇、
あらゆるだらしなさ、あらゆる欲望に満ちた倦怠、
あらゆる緩慢さは、私から去るがよい。
私の『精励』よ、考察の目の前に
おまえの利益と目的を提示しなさい。
他人の多くの中傷や多くの悪意と嫉妬の所産を
有益なものに変えなさい。
人々はおまえを生家から追い出し、
友から引き離し、祖国から遠ざけ、
不親切な地域へと追放したが、
おまえはおまえに対する
この理にかなった恐怖を有益なものに変えなさい。
私の『精励』よ、私とともにこの追放と苦悩を、
祖国における静かで快適で
平和な生活よりも栄光あるものにしなさい。
『勤労』よ、立ちあがりなさい。
おまえは何をしているのか。
死後には閑暇と睡眠がたっぷりあるのに、
生きているうちになぜこれらに多くの時間を
費やさなければならないのか。
死後、別の生と別の存在が待っているとしても、
それは今のわれわれの存在とは別のものだ。
したがって、この生は二度と戻ることなしに、
永遠に過ぎ去ってしまうのだ。
『希望』よ、何をしている。
なぜ、私を促し、刺激しないのか。
立ちあがれ。拙速な始め方をしたり、
時間通りに終わらなかったりしないかぎり、
私が困難な事柄から有益な結果を
待ち望むことができるようにしなさい。
そして、私の期待がたんに生きるためにではなく、
よく生きるためにあるようにしなさい。
『熱意』よ、つねに私のもとに留まり、
私が善なる神にふさわしくないことを試みたり、
より大きな問題を引き起こす問題に
手を伸ばしたりしないようにしなさい。
『賢慮』よ、不確かで疑わしいことから
私が急に退いたり、背を向けたりせずに、
ゆっくりと安全なところへと避難できるようにしなさい
『勇気』よ、困難が私を圧迫し、
侮辱し、妨げるとき、おまえの活発で熱意ある声で、
『逆境にたじろがず、大胆に歩め』という言葉を
私の耳に何度も語りかけなさい。
『忍耐』よ、私を力づけ、抑制しなさい。
倦怠ではなく寛容の兄弟である
おまえの選ばれた閑暇を、私に与えなさい。
寛大で英雄的で配慮に富んだ『恐怖』よ、
私のもとに留まりなさい。
私が生者の間で居場所を失う前に、
栄光ある人たちの間で
居場所を失わないように、私を刺激しなさい。
死の眠りが私から手を奪う前に、
私が十分な 備えをもち、
仕事の栄光が私から奪われないようにしなさい。

2019.2.1[Fri]
『ロバの肯定』

アントローポスの神化の過程
労苦の過程の企て
其れはちょっとの間の戯れ
輝く光で熱気を帯びた象徴は泥的で
こわばった心は訊ねる
アダムは其れによって具現化される
勤労、希望、忍耐、勇気、賢慮
英雄的な緊張感
亡命の経験の長い行程は
認識の旅を続ける為に
立ち向かわなければならぬ
内包の光のページェント
人類全体への警告
変身の車輪の頂に達する
頑ななエーテル質
やがて選ばれた戯れが
絵のよふに美しく
ヘルメス・トリスメギストスが
おぼろげになるよふなことがあったのなら
ロゴスの予感は世の沈むのを示す
白い造り主の心の競売
デミウルゴスの役に立たない王冠
逆境にたじろぐべきではなく
執拗に繰り返されるブルーノの運命の髪
わたしは面食らってしまふ
なんと無比な答えであろふ
鍾乳洞のよふに
あなたに証しましょう
其の望みは清らかなもの
ロバの肯定
わたしは此処にいて夢見るだけ



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