2021.11.28[Sun]
『純粋持続』

『生と死が対立するのは個人に於いてのみである…』という言葉は
『ポール・ヴァレリー』によるもの…

つまり『個人』は『生の終わり』に近づいた時に
一体、何を思うのか…ということ…

『自己の消滅』として『完全な虚無』として受け入れるのか
はたまた『自己』の中に、何ものかを『永遠化』しようとするのかという問題…

『死』とは、誰にとっても決して逃れることの出来ない『限界』であり
其れに関しての『個人』と『死』の関係性が
歴史的に、どのように考察されてきたのかという問題とも言える訳だ…

例えば、小説家『クロード・シモン』は
此れに関する『素描』を試みた重要人物であろうと思う…

彼の名著『フランドルへの道』は、第二次世界大戦中
主人公であるジョルジュに立ち上がった、たった一晩の『記憶』の混沌が
非常に難解な文体で、約300ページに渡って展開されるもの…

以下は、10年以上前にアップした『クロード・シモン』に関する記事…

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(2010.1.31[Sun]「フランドルへの道」・参照)

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さて、話を変える…

『アンリ・ベルクソン』の著書『時間と自由』の中で
中心で語られていることは『持続』と『空間』の二元論である…

言い換えれば『持続』は『主観』であり
『空間』は『客観』に一致するものとなる…

『持続』とは、絶えず『移ろいゆくもの』で
客観的構造を持つ『空間』による如何なる『規定』からも逃れ去るものであるが
此れは『カント哲学』に於いては限界点となった訳だ…

『アンリ・ベルクソン』の哲学は、此れを更に超越した観点で
語られていることが特徴的であり『持続』と『空間』は
必ずしも完全に一致することがないことを証明したもので
数的なものに於いてのみ捉えられる傾向にある多様性を
『質的なもの』と『数的なもの』に区別していることが特徴である…

例えば、紙に鉛筆で『線』を引いたとする…

『紙に描かれた線』とは、動きそのものを『空間』上の
『動体の軌跡』に翻訳して捉えることを意味することになり
此れは、まさしく『数的なもの』である…

『空間』に中に位置付けられた『線』は
其れだけを切り離して『結晶化』されたものであり
其の特性上『分類』または『解体』されたとしても
客観的存在は存在し続ける…

一方で『アンリ・ベルクソン』は
『空間』の構成から逃れ去って終う
数的ではない『質的な多様性』について考えている…

此れは、つまり『持続』を指すのであるが
其れは、彼が『旋律』を例に説明していることからも明らかで
諸要素が決して『輪郭』を持たず、外在化する傾向もなく
相互に浸透しあっている変化の継起を意味している…

『旋律』は、今此の瞬間に聴こえている『音階』によって
我々にもたらされているのではない…

継起的な『音階』が相互に『有機化』され
『不可分な連続』として存在することによって
もたらされている…

『持続』とは『旋律』其のものの『推移』であり
『点』や『現在』に還元できるものではない…

何故ならば『現在』は『空間』に於いてのみ可能だからだ…

『アンリ・ベルクソン』の解釈によれば
『空間』とは、既に作り上げられた『楽譜』として存在する作品であり
『持続』とは、其の『楽譜』でも『再現としての演奏』でもない…

『持続』とは『旋律』を創造し乍ら演奏し続けることであり
更に『旋律』に耳を傾け、其れと一体化することなのだ…

以下…

『アンリ・ベルクソン』著
『時間と自由』(白水ブックス)より一部、抜粋…
(P128〜132)

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『真の持続』

ここにおいて明らかになることは、あらゆる記号的表象の外に出れば、時間は、意識に対して、一つの継起の各項がお互いに外在するような、等質の環境の様相をとることは決してないだろう、ということである。しかしわれわれは、一連の同一の諸項の中なる各項が、意識に対して二重の様相、一つは、われわれが外的対象の同一性を思いやるための、つねに自己同一的な様相であり、今一つはその項が加わることによって全体の新しい有機化が引き起こされるための特殊な様相であるをとるという、これだけの事実によって、おのずとこの記号的表象に立ち到ってしまう。この点から、われわれが質的多数性と呼んだものを、数的多数性の形のもとに、空間内に展開 し、この二種類の多数性をお互いに相手の等価物とみなす可能性が生じてくる。ところでこの二重の過程がどんな場合よりも容易に果たされるのは、それ自体としては認識できないが、われわれに とっては運動の形をとるような外的現象の知覚の際である。この場合、運動体はつねに同じものだから、われわれは相互に同一の一連の諸項をたしかにもつわけだ。しかし他方において、現在の運動体の位置と、記憶が前の位置だとしているものとのあいだで意識によって行なわれる綜合のために、これらの像はお互いに浸透し合い、補足し合い、いわばお互いに連続してしまう。それで持続か等質の環境の形をとり、時間が空間内に投影されるのは、とりわけ運動の媒介を経てのことである。しかし、運動がなくとも、はっきり確定された外的現象がくりかえされるときはいってる。意識には同じ様式の表象が暗示されたはずである。したがって、一連の槌の音を耳にする場合これは、それらの音は純粋な感覚としては眼に見えぬメロディーをなして、われわれがダイナミックな進行と呼んだ状態を生み出す。しかし同一の客観的原因がはたらいていることを知っているので、 われわれはこの進行をいくつかの段階に切断しそれをそれぞれ同一のものとみなす。そしてこの多数の同一的諸項はもはや空間内に展開されることによってしか考えられることができないので、わ れわれはまたしても必然的に、真の持続の記号的像である等質的時間の観念にたどりついてしま う。一言でいえば、われわれの自我はその表面では外部世界に触れているものなのだ。それで継起する諸感覚は、お互いの内部へ溶け合っているとはいえ、その原因の客観的特徴となっている相互的外在性のいくらかをとどめている。そしてこれこそ表層的な心理生活が等質的な環境の中でくりひろげられて、しかもこのような表象の仕方にはたいした努力を必要としないことの理由である。 しかしこのような表象の記号的性格は、われわれが意識の深層へいっそう貫入すればするほどます ます著しいものになる。内的自我、すなわち、感じたり情熱をもやしたりする自我、考えこんだり決心したりする自我は、その諸状態と変容とが緊密に浸透し合っている一つの力であって、それらの状態や変容を切りはなして空間内にくりひろげようとすればただちに深い変質をこうむってしまうものなのだ。しかしいっそう深いこの自我は表層的な自我と合してただ一つの同じ人格をなしているので、これらの二つの自我は、必然的に同じ仕方で持続するように見える。そして反復される同一的ななんらかの客観的現象をつねに表象しているために、われわれの表層的心的生活はお互いに外在的な各部分に切断され、こうして確定された諸瞬間が、今度は自分たちの方から、われわれのいっそう人格的な意識状態のダイナミックで不可分な進行の中に、区切られたいくつかの線分を劃することになる。意識の深層にまでも、物的対象が等質の空間内に並置されていることによって保証されている相互的外在性が、このように反響し、このように広がって行くのである。われわれの感覚は、少しずつ、それを生み出した外的原因と同じようにお互いに離れて行き、感情や観念も それと同時的な感覚と同様にお互いに分離されて行く。持続についてのわれわれの普通の考え方が純粋意識の領域内へ空間がしだいに侵入してくることに左右されていることをはっきり示す事実は、自我から等質的時間を知覚する能力を取り去るためには、自我が自己の調整機構として利用している心的事象の比較的表面的なあの層を、自我から取り去るだけで事足りる、ということである。夢はまさにわれわれをこのような状態に置く。なぜなら眠りは、身体器官の機能をゆるめることによって、特に自我と外的事物とのあいだの交流面を変容させるからである。そのとき持続はもはや計測されることはなく、感じられるものとなり、量から質の状態に立ちもどる。流れた時間の数学的測定はもはや行なわれず、あらゆる本能と同様にひどいあやまりもおかすが、またしばしば立にすれた確実さをもって働くこともできる漠然とした一つの本能に、その席をゆずる。目覚めている状態においても日常の経験によって、われわれは、質的持続、意識が直接に到達する持続、動物がたぶん知覚している持続と、いわば物質化された時間、空間内に展開されることによって量となった時間、とのあいだを区別することを教えられているはずである。私がこの文章を書いている今、隣りの時計が時を報じている。しかしうわの空であった私の耳は、いくつかの打つ音が鳴り終わった後になってやっとそれに気がつく。したがって私はそれらを数えていなかったわけだ。しかもそれにもかかわらず、すでに鳴ってしまった四つの音の総和をつくり、それを現に聞こえている 音に加えるためには、遡行的に注意の努力をはたらかせれば十分である。自己の内部に立ち帰って今何が起こったかを注意ぶかく自問してみると、最初の四つの音が耳を打ち意識を動かしさえしたのだが、その各音によって生み出された感覚は、並置されるかわりに、全体の固有の様相をあたえるような仕方で、いわばそれを一種の楽節とするような仕方でお互いの内部へ溶け合っていたのであったことが認められる。打った音の数を遡って評価するために、私はこの楽節を頭の中で再構成しようとこころみた。私の想像力が一つ、二つ、三つ、という風に時を打って行き、正確に四つという数に到達しないかぎり、判断をもとめられた感受性は、全体的印象が質的に異なっていると答えたのである。したがって想像力は自分の流儀で四つ打った音の継起を検証していたのだが、それは加え算とはまったく別のやり方であり、区々別々な各項の並置の像を介入させることなどしなかったのである。要するに、打った音の数は質として知覚され量として知覚されたのではなかった。持続とはこんなふうに直接意識にあらわれるものであり、延長〔広がり〕から引き出された記号的表象に席をゆずらぬかぎり、意識はこの形をたもちつづけるものなのだ。それで、結論として、多数性の二つの形式、持続についてのまったく異なる二つの評価、意識生活の二つの様相を区別しよう。注意深い心理学は、真の持続の外延的記号である等質の持続の下にその異質的瞬間がお互いに浸透し合っている持続を、また、意識状態の数的多数性の下に質的な多数性を、はっきり と限定された諸状態をもつ自我の下にその継起が融合と有機化とを含んでいるような自我を、見分けるのである。しかしわれわれはたいていの場合、前者、すなわち等質的空間内に投影された自我の影に満足している。意識は、区別しようとする飽くことのない願いにさいなまれて、現実に記号を置きかえ、あるいは記号を通してしか現実を知覚しない。このように屈折させられて、またまさにそのために細分されてしまった自我は、一般の社会生活や特に言語の要求には、はるかによく応ずるものとなるので、意識はこのような自我の方が好ましいと思いしだいに根本的自我を見うしなって行くのである。

2021.11.22[Mon]
『不滅』

前回、初個展の時の『DM画像』をアップしたが
此の個展の開催中に『ジジ』と一緒に『時間』を共にしてきた
三毛猫の『ミケ』が、此の世を去った…

(ミケの本名は、ミケランジェロ…)

『ミケ』が亡くなった時
『ジジ』が其の亡骸の側で
聞いたこともなかったような『鳴き声』で
其の『死』を悼んでいたことを思い出す…

さて『ミケ』も『ジジ』も
『永遠』という『時間』の中に於いて
ある『瞬間』のさなかに存在していたのであって
其れは、取り消すことは不可能な事実である…

其の『不可能性』の厳しさが『瞬間』の永遠性を
より深く豊かなものとしているのだろう…

あらゆる『瞬間』は
『生命の飛躍(エラン・ヴィタール )』の連続であり
また同時に『終末の時間』でもある…

つまり、其の『瞬間』『瞬間』に於いて
『生命』が『消滅』していることの連続でもある訳で
まさに『現在』とは、其れだけで完全であり
絶対的な響きを持っているということになる…

もちろん『死』とは…
我々から『生きること』の可能性を全て奪って終う…

然し乍ら『生命』が、此の世に関わったという事実は
『死』によっても、崩壊させることは出来ない…

つまり『不滅』であり
其れは『記憶』其のものなのだ…

『流れた時間』は『空間』を持ち、幾らでも分割可能である…
然し乍ら『流れる時間』は、絶対に分割は出来ないのである…

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愛猫『ジジ』〜『やさしさで溢れるように』

https://www.youtube.com/watch?v=bc53l0RUKUg&t=4s

2021.11.19[Fri]
『二種類の記憶』

愛猫『ジジ』が亡くなって本日で、二週間…

もう此の世に、其の『肉体』は無くとも
私は、以前よりもずっと強く、其の存在を
側に感じることが出来ている…

私にとって『ジジの死』は『記憶』ということを
改めて『玩味』する機会となっているのだろう…

そもそも論として…

私の『初個展』のタイトルも『記憶の交錯』であったから
当たり前と言えば、当たり前のことなのかもしれない…

さて、話を進める…

『アンリ・ベルクソン』によれば
『記憶』の働きとは、二種類に分けられる…

先づ、ひとつめは我々の『身体』
つまり『運動感覚』と結びついている『記憶』で
殆ど反射的に自動的に『反復』できるような『行為化』されたもの…

例えて言うなら、我々がパソコンのキーボードを打つ場合
其の都度、指の動かし方について確認したりせずとも
其れが可能になるというようなこと…

ふたつめは『純粋記憶』と呼ばれるもので
例えるならば、私が『ジジ』と過ごした経験や出来事を
其のまま保存しているような『記憶』である…

前者は『神経系』が、まず『知覚』をこしらえるのであり
次いで『運動を創造』することを職分とするような独立の存在…

つまり、私の身体を刺激させる『諸対象』と
私が影響を与える『諸対象』の間に介在しているもので
『運動』を伝達、分配するものであり
或いは、制止する『伝導体』としての役割を演じているのみで
是等の活動には、必ず『空間』が存在していることとなる訳だ…

然し乍ら、後者は我々の『歴史』の一時期を呼び起こすものであり
『現在』から『離脱』することによって『過去』の或る一領野に
我々自身を『置き直す』という独特な働きを意識することである…

此れは非常に手探りで『潜在的』な状態にあり
次第に其れが『現実的』な状態へと移行していく中に於いて『知覚』を模倣しようとする…
つまり『過去』は決して消えず『現在』の此の『瞬間』に滑り込んでおり
改めて『生き直されて』いることなのだ…

『純粋記憶』は依然として『過去』と断絶することは出来ないものであり
本質的に『無力』で『空間』を保持していないものではあるのだが
其れは、直近の『記憶』から、遠い過去の『記憶』まで
どんどん重ね合わせることが可能で『時間』が緩んだ状態ということ…

其の中に於ける『イマージュ』の総体が
具体的な『物質』や『空間』に働きかけ
『現在』を作り出しているということなのだ…

『アンリ・ベルクソン』の『生命の飛躍(エラン・ヴィタール )』とは
此の『全宇宙』に於ける『全生命体』に関する
『生の爆発』に端を発するものであり
『生命の進化』を裏付けるものとして『記憶』が
非常に大きな役割を果たしてきたことの証明なのである…

2021.11.17[Wed]
『時間を無駄に過ごしてみる…』

私自身、昔と比較すれば
だいぶ、急かされる思いをすることが
少なくなったように思う…

かつては『時間』が足りない…
『時間』が欲しいという感覚に支配されていたようだが
今現在は、非常にのんびりと日々過ごしている状況…

普段、昼間は勤めがあり『仕事』をしなければいけないから
帰宅してから此のように『記事』を書いてアップする…

何を書くかについても、一日中、頭を巡らせている訳ではないし
『夕食』を済ませてから、さて…何を書こうかという感じ…

テーマが決まってから書き終えるまで、せいぜい30分…
長くても1時間もかからない…

非常に『頭』を使う作業ではあるのだが
『趣味的な気まぐれな感覚』なので、何ひとつ苦痛ではないし
全くと言って良いほど『あくせく』もしていない…

此れは『時間』を無駄に過ごすことを
私自身が、良しとしている事の表れなのだろうと思っている…

さて昨日は、ミヒャエル・エンデの名著
『モモ』について触れたが…

サン=テグジュペリの名著である
『星の王子さま』にも、同じものが見て取れる…

『王子さま』は、自分の星に咲いた一本の『薔薇』を
此の世にたったひとつだと思い、愛情を注いでいたのだが…

『薔薇』が、余りにもあれこれと『ワガママ』を言い
世話を焼かせることに対して『嫌気』がさして旅に出た…

然し乍ら『王子さま』は、星から星へと旅をし
やがて七番目の星『地球』で『五千本の薔薇の花』が
咲き乱れる庭を目の当たりにして終う…

『薔薇』が、特別珍しくもない当たり前な存在だと知り
『王子さま』は、悲しみに打ちひしがれるのである…

其処へ『キツネ』が現れて、二人は仲良くなる…

ただし『キツネ』は、ただ単に
『王子さま』の友達になるのではない…

『友だち』になるということは、どういう意味なのか…
『かけがえのないもの』になるということは
どういうことなのかを教えるのだ…

『キツネ』は『王子さま』に語る…

『王子さま』が『故郷の薔薇』を大切に思っているのは
其の『薔薇』のために『時間』を無駄にしたからだ…と…

『愛』は、とてもゆっくりしたものなのだ…
『時間』はかかるし、時として非常に面倒臭いもの…

だから『愛』は尊いのである…

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『リトルプリンス〜星の王子さまと私』

https://www.youtube.com/watch?v=qEAib2X4yj0&t=13s

https://www.youtube.com/watch?v=lUbI3CHBx0Y

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さて、此処で再び『アンリ・ベルクソン』へと話を移行してみよう…

普段、我々が『生活』する中に於ける表面的な『心的生活』は
外在的な部分(つまり、物質や空間)に切断されていく傾向にある…

其のような部分が、我々の『内奥自我』つまり
『精神』や『記憶』の本来の動的な生活を切断して終うのだ…

言い換えれば、其のような感覚で分離しようとすることが
『内奥自我』を変質させて終うということでもある…

にも関わらず、我々は『空間』や『物質』の中に投影された
『自我の影』で満足して終っていることが、非常に多い…

何故ならば、此のような状況の方が
『社会生活』に適合し易いからである…

『物理学』や『自然科学』がまさに其れ…

『物理学』や『自然科学』のように
等質的に『言語化』して終うということは
『直観』の普遍性を覆い隠して終うのだ…

『直観』は非常に『純粋』であるにも関わらず…

此れは、非常に勿体ないことなのである…

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アンリ・ベルクソン著
『時間と自由』より、一部抜粋…

(以下…)

意識は、区別しようとする飽くなき欲望に悩まされて
現実の代わりに記号を置き換えたり
あるいは記号を通してしか現実を知覚しない。
このように屈折させられ、
またまさにそのことによって細分化された自我は、
一般に社会生活の、特に言語の諸要求にはるかによく適合するので、
意識はその方を好み、少しずつ根底的自我を見失っていくのである。

2021.11.16[Tue]
『愛と時間の関係性』

ミヒャエル・エンデの名著『モモ』のあらすじは
ある日、何処からともなく現れた『モモ』という名の少女が
都会の外れにある『古代円形闘技場』の廃棄に
住み始めることが発端となっている…

『モモ』は、非常に魅力的な少女であり
間も無く、彼女の周りには町の人々が集まるようになっていく…

其の人気の『秘密』とは…
彼女が他に例えようがない『素晴らしい才能』を持っていたこと…

其の『才能』とは、相手の話を
ただ、じっと聞いてあげる事が出来るというものである…

彼女は、大喧嘩した男たちが
にらみ合いをやめて、話し始めるまで…
また、歌を忘れたカナリアが楽しそうに歌い出すまで
何日でも側にいて、じっと耳を澄ますのだ…

『モモ』は、自分を取り巻く全ての人々の
そして『世界』のさまざまな声を聞く…

其のためには『待つ時間』が必要になる…
『モモ』は決して、其の『時間』を惜しまない…

我々は、ともすれば…

まるで『時間』を『銀行』に預けて
『利子』が付くのを期待するかのように
『時間』を倹約して生きようとしている…

そして、其のような思考に
どっぷりと囚われている人の特徴は…
『待つ時間』を、無駄なものと思い込み
どんどん怒りっぽい性格になって終うのである…

昨日『時間』とは『愛』に繋がっていくと述べたが
『モモ』に内在している哲学は、紛れもなく『真実』である…

愛する者のためであれば、自らの『時間』を放棄してでも
相手のために惜しみない『時間』を注ぎ込む…
畢竟『時間』は『愛』其のものなのだ…

さて、此処で少し話を変える…

私は『ジジ』と過ごした『時間』を
いくらでも『思い浮かべる』ことが出来る…

然し乍ら、此の『思い浮かべる』ということは『回想』して
『懐かしむ』ということを意味しているのではない…

非常に『鮮明なもの』として
私の『記憶』の中に『立ち現れる』ということなのだ…

(此れについては、最後に重要な引用文を掲載する…)

自らにとって大切な存在が、此の世を去った時
『肉体』は滅びて終うが、其の『魂』や『精神』は
ありのままの姿で、我々の『記憶』の中に生き続ける…

我々は各々、生きてきた中での記憶…

畢竟『全歴史』を背負っているのであり
其れはいつでも好きな時に、蘇らせ
生き直させることが可能なのだ…

其れは『生命の飛躍(エラン・ヴィタール )』の
躍動の中で生まれる自発的な行為を
『内奥自我』に於いて『直観』することに他ならない…
其れこそが『真の時間』であり『愛』であり『真の自由』である…

其れを裏付ける『引用文』が、以下である…

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アンリ・ベルクソン著
『物質と記憶』(白水社)より、一部抜粋…
(P152〜153)…

(以下…)

私たちははじめから過去に身を置くのでなければ、
過去に到達することは絶対にあるまい。
過去は本質上潜在的であって、暗闇から白日下へ出つつ
現在のイマージュへと開花するその運動を、
私たちが、追跡しかつとり入れる場合にのみ、
過去として私たちによってとらえられうるのだ。
何か現実的なすでに実現されているものの中に、
その形跡を捜してもむだである。
まるで光の中に闇を捜すようなものであろう。
まさにその点に連想説の誤りがある。
現実的なものの中に席を占めた連想說は、
実現された現在の状態の中に、
その過去の起源のしるしを発見しようとつとめ、
記憶を知覚から区別するため、
あらかじめ量の差でしかありえぬように
定めておいたものを本性の差にしてしまうために、
無益な努力をするだけが精一杯なのである。
思い浮かべることは回想することではない。
もちろん記憶は、現実化するにつれて、
イマージュの中に生きようとする。
しかし逆は真ではなく、純粋なたんなる
イマージュが私を過去へつれていくのは、
じっさいに私が過去の中へ過去をもとめに行き、
こうして過去を闇から光へと導いた
連続的発展に従って進んだ場合のみであろう。

2021.11.15[Mon]
『時間の本質は、愛である…』

例えばアナログ時計が表すような『時間』は
1秒…、2秒…と『時計の針』が等間隔の刻みをほどこし
我々に『時の経過』を感じさせてくれている…

此れはつまり『流れる時間』を『時計』によって
『量的』に記述していることであり
此れは普段、誰もが当たり前に認識していることである…

其処で計測される『時間』は
『時計の針』が指し示す『空間』の位置の差を
『量的』に記述するということになる訳だ…

等間隔に刻むことができるという考えは
『空間』や『物質』の性質上に於いてのみ可能であるため
『時計』が刻む『時間』とは『空間化された時間』ということになる…

然し乍ら、此れは…

『自然科学』や『物理学』に於ける見解で
『時間』の本質を意味しない…

『本質的な時間の概念』とは
其のような『空間的な要素』の性質とは
全く違う『質的な強度』を持っており…

本来『意識』に直接与えられたものであり
『分割』はおろか『固定化』することも不可能なものだからだ…

物理学的な見地からの『空間化された時間』は『過去』であり
空間とは一切、共通点のない『純粋な本来の時間』は『未来』である…
つまり、前者は既に過ぎ去り『固定化』され『分割可能』であるのに対して
後者は、現在から未来への『流れ』として『未決定の状態』にあるということなのだ…

我々は後者を『分析』することは絶対に不可能であり
ただ『直観』するのみであり『科学的見地』を超越し
『哲学的見地』の領域であるということ…

つまり、観測される現象や事物の関係を捉えて
其れを『記号化』し『言葉』を与えたものが『自然科学』や『物理学』であり
『純粋な本来の時間』は『直観』のみによって
『事実の本質』に到達することが出来るという性質だと言える…

言い換えれば『存在』というものの本質は
決して『量的』なものではなく『質的』なものであることを
意味しているのである…

例えば、我々が『音楽』を聴く際…
ひとつの、まとまった『メロディー』を思考する…

今現在、其の瞬間に聴こえているのは
ひとつの『音階』のみで、其れ以上でも以下でもない…

次の瞬間には
其の『音階』とは別の『音階』が聴こえるが…

我々の耳に聴こえてくるものは
断続的に『ブツ切り』された『音』ではない…

今現在、寸断されたはずの記憶の中にある
前後の『音階』が溶け合い…
過ぎ去ったばかりの『音階』と融合し
分節し切れないものとして立ち上がってくるからだ…

つまり、我々が『直観』するということは
『意識』が伸縮し続け、前後が相互に浸透し合い
『質的』には全く『均等』ではなく
非常に多彩な変転の中にあるということである…

『時間』の本質は、此処にある…
そして『時間』とは『愛』に繋がっていくのである…

2021.11.11[Thu]
『時間という概念』

愛猫『ジジ』が亡くなり、本日は『初七日』…

今もなお、気持ちが追いついていない状態で
既に『ジジの肉体』は無くなってしまったものの
部屋のそこかしこに、其の『気配』を感じて終う…

亡くなったことを自覚している時は、まだ良いのだが
忘れている瞬間というものも実に同居しており、ふと我に返って
『そうだ…もう、いないんだった…』と感じる瞬間が、一日の中でも何度もある…

悲しみを乗り越えるためには
非常に長い『時間』を要するのだと、切に感じるのだ…

此処で感じたことは
『精神』または『記憶』の問題…

何故ならば、此れは私自身
全く説明の出来ないことであるが
私自身『科学』では説明のつかない世界を
深く信じているからだ…

実は、私は此れまでの人生の中で
『正夢』を何度も経験している…

全く脈絡もなく『夢』で見たことが
現実に起こるという経験であり…

言い換えれば『とある人物』が、私の前に現れて
『●月●日に、こういった事が起こる…』と告げるものであり…
実際に、其の『夢』は、的中する…

驚くべきは、其の『夢』は
数カ月前に見ているということ…

更に言えば、其の『とある人物』が
誰であるのかということも、私自身は認識しており…

更には、天界のどの階層から
話しかけてきているのかも
肌で感じることが出来ているのだ…

(因みに、1994年4月1日に亡くなった女性で、今現在は冥王星に位置している…)

つまり、今現在『ジジの気配』を感じるのは
決して錯覚などではないという事を
私自身、確信を持っているということでもあるのだ…

言い換えれば『物質』の世界を超越した『精神』または
『記憶』の交錯が実在しているということ…

全くもって不可思議なことであるが
事実なのだから、信じざるを得ない…
私自身にとっても、どうしようもないことなのだ…

さて、此処で話を変える…

ポルトガル語の『Saudade(サウダージ)』は
郷愁、憧憬、思慕、切なさなどの意味合いを持つが
どうしても日本語では役不足となる言葉である…

私は此れについては、折に触れてきたが
以下のような景色を持っていると解釈している…

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この世に永続的なものも
頼ることのできる不変の拠り所も存在しない
そんな明らかで疑う余地のない事実によって
意識が貫かれたときに感じる
締めつけられたような心の痛み…

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私自身『Saudade(サウダージ)』については
正確に認識しているかは自信はないのだが
おおよそのところは、外していないのではないかと思う…

更に言えば…

此の『Saudade(サウダージ)』の肝となるのは
『時間』という概念ではなかろうかということ…

歴史的に、科学界では『ニュートン』
哲学界では『カント』という、其々の分野で最も偉大な知性が登場し
別の仕方で、量的で画一的な『時間』と『空間』を打ち立てた…

此れは、簡単に言えば『時間』も『空間』も、其の部分部分は
数量で算出することが出来、何処を切り取っても等しいような
規格化された絶対的で無機質なものとして見出したものであり…
此のような考え方は『自然科学』『物理学』にとっても
非常に有用なものとして広く浸透し、受け入れられている…

然し乍ら、実は此れは
一見、正しいようで、そうではない…

特に『時間』に関しての此のような考え方は
我々が日々経験し乍ら、認識してるような
豊かな『時間』の本質とは全く異なるのである…

つまり、是等は『虚構』なのだ…

真実の『時間』とは、我々にとって
急いでいる時は非常に進みが早かったり
何かを待っている時には、やたら気を揉んだりと
決して、均一なものとして立ち現れないからである…

此れから、しばらくの間…

『世界情勢』から離れて
此の件について考察してみたいと思う…

2021.11.10[Wed]
『やさしさで溢れるように』

愛猫『ジジ』
2006年4月7日(金)〜2021年11月5日(金)
享年16歳

以下は『ジジ』と一緒に生きてきた記録動画…

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https://www.youtube.com/watch?v=bc53l0RUKUg

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Flower
『やさしさで溢れるように』

https://www.youtube.com/watch?v=lQ1jrwflU9Q

2021.11.6[Sat]
『悼む』

愛猫『ジジ』〜享年16歳
2006年4月7日(金)〜2021年11月5日(金)

※掲載画像は、2021年11月5日(AM7:41撮影)

2021.11.2[Tue]
『オートファジー誘発薬』

『オートファジー』とは…

進化的に保存された細胞内自己分解プロセスに於いて
誤って折りたたまれたタンパク質の除去や、損傷した細胞小器官の除去…
また、ウイルスなどの細胞内病原体の除去に、重要な役割を果たすものをいう…

此の『オートファジー』の殆どは
細胞で機能する保存されたメカニズムのことを指し
此の『分解カスケード』による『オートファジー』の分解速度を
『オートファジーフラックス』という…

実は『新型コロナウイルス』は
『オートファジーフラックス』に対して
非常に脆弱だというのだ…

つまり、是等を採用した『オートファジー誘発薬』は
化合物が到達するすべての臓器で『新型コロナウイルス』に対して
効果を発揮する可能性を秘めている…

『世界保健機関(WHO)』は、2020年に
『レムデシビル』『インターフェロンβ1a』『ヒドロキシクロロキン』
『ロピナビル』と『リトナビル』の組み合わせをテストしたが
殆ど全く効果を明らかに出来なかった…

今現在、イニシアチブを得ているのは、以下の@〜Bの『免疫調整薬』…
因みに、是等は直接『新型コロナウイルス』と闘うのではなく
誇張された『免疫応答』によって引き起こされる損傷を制限するものである…

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@『インフリキシマブ』
クローン病などの自己免疫疾患を治療するために
臨床診療で使用される腫瘍壊死因子を標的とするキメラ抗体…

A『イマチニブ』
性骨髄性白血病の治療に使用される
ABLチロシンキナーゼ阻害剤…

B『アルテスナート』
抗マラリア作用と強力な抗癌作用を確立した
アルテミシニンの誘導体…

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此れまで何度も取り上げてきた
『イベルメクチン』も『オートファジー誘発薬』のひとつで
『世界保健機関(WHO)』は『イベルメクチン』を早急に
有効な『オートファジー誘発薬』として加えるべきである…

何故ならば『イベルメクチン』の
『オートファジー誘導効果』を報告する研究結果が
非常に増えてきているからだ…

また、抗うつ剤の『フルオキセチン』や『フルオキセチン』も同様に
肺組織における『新型コロナウイルス』阻害剤として注目を浴びてきている…



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